東山・星ヶ丘の歴史

(1)東山古窯群(奈良時代〜鎌倉時代)

現在の末盛、自由ヶ丘、東山、平和公園、星ヶ丘、西山、猪高一帯の丘陵地に百以上の窯址が発見されている。奈良時代から鎌倉時代にかけて、須恵器を焼いていた址である。

当時このあたりは日本の陶器製造の中心的な存在であった。
現代日本の窯業地、瀬戸、東濃(美濃焼)、常滑、四日市(万古焼)は、ここを中心にに広がっていったとのことだが、ここを中心に地図の上に円を描いてみると、なるほどと うなづける。
ちなみに、末盛の「末」は「陶」とも書き、須恵器づくりの行われた場所とも言われている。
また、「東山」と「本山」の間に、「唐山」という地名があるが、須恵器づくりの 朝鮮帰化人(唐人)の住んだ山だから 唐山とつけたという説もある。

1200年も前、この地が日本の窯業の中心地として 煙をたなびかせていたかと思うと 感慨深い。

(2)柴田勝家(戦国時代)

今の 名東区東一社あたりで生まれた。
東一社の明徳寺に「柴田勝家公生誕の地」の碑が建っている。

勝家は、最初 末森城の織田信秀(信長の父)、信行(信長の弟)父子に仕えた。
主君 信行が兄信長に反逆した時諌めたが、聞き入れられず やむなく信長と戦い敗戦。剃髪して罪を詫びたが信長はこれを強く咎めなかったので、勝家は深く感激し 信長のために身命をささげる覚悟をしたといわれている。

一社から、末森への往来には、当然ここを通っているはずである。

(3)溜池(江戸時代)

sinike 江戸時代、尾張徳川家は新田の開拓を奨励し、その上にあたる このあたり一帯には潅漑用の溜池がたくさん作られた。
例えば、猫ヶ洞池、大藪池(東山動物園正門入ったところに名残がある)、源蔵池(東山公園のボート池)、新池(平和公園入口)、鏡池(名古屋大学北西角)など。

今の新池は、東山公園から星ヶ丘に向かっていくと左側、東山公園駐車場の奥にわずかに残っているだけであるが、昔は、東山通りのもっと右手、千種図書館・名古屋ユースホステルの麓や、東山工業高校あたりまでの、大きな池であった。

今池という池も実際あった。今の今池中学あたりで、馬を良く洗っていたことから馬池といわれていたとも言う。
また、池下というのは 蝮ヶ池という大きな池の下にあった集落の名前である。

(4)中馬街道(江戸時代〜明治時代)

慶長年間、信州から名古屋に至る飯田街道の途中、日進・米野木あたりから 飯田街道をはずれ、北西に向かい、高針を通って、「名古屋の城下町から東に延びる道」につながる道が開かれた。
この交点が「追分」、つまり今の『星ヶ丘交差点』である。

この道は「中馬(ちゅうま)みち」といわれた。「中馬」とは「中継馬」のことである。信州から馬の背にのせてタバコや木地椀などを運び、名古屋で 塩や 干し魚 瀬戸物 綿などを仕入れて信州に帰っていった。
足助を朝発ち、その日は高針で泊り、翌日名古屋城下に入るというような行程が一般的だったようだ。
明治の中頃まで高針には、馬方宿があった。

(5)東山〜追分(明治〜昭和・戦前)

昭和12年(1937年)東山動植物園が開園された。当時は東洋一の設備を誇っていた。
東山動植物園の開園によって、市電が覚王山から東山まで延長された。
itinominesaka松nabeturu
しかし道路の拡張・舗装も東山までで、それを過ぎると急速に山道になった。新池に向かう坂道は「一ノ嶺坂」と呼ばれた。
「一ノ嶺坂」の松の一部がつい最近まで残っていた。
ここから新池を回って追分に至る間は、松林が生い茂り昭和20年代までは、昼なお暗く 追い剥ぎが出るような恐い道だったそうだ。(一番右の写真はその名残)

(6)追分(明治〜昭和・戦前)

追分一帯も 樹木生い茂り昼なお暗いところであったが、明治9年(1876年)「井上新氏」という人がその一角に住みついて開墾を始めた。
simizukobo 南方の山から良質な清水が湧いており、それを利用して明治41年 新氏さんの奥さんが「流しそうめん屋」を始めた。
その年に、清水を守る「弘法の石像」が作られた。この石像は いまでも星が丘郵便局の北に 祀られている。

大正元年(1912年)には、追分の北側に井上家の分家ができ、高針から名古屋市内に肥汲みに行く農民や、名古屋から「岩崎の御岳参り」に行く人たちを相手に、“おでん”や“そうめん”“タバコ”などを売る店を出した。
この店は、終戦当時まであったそうだ。

追分から右に入る(現在の名東本通)のが中馬みちであったが、一方まっすぐ行く道(東名インター方面)は「長久手道」といわれていた。
この長久手道の北側一帯は、戦前 分譲住宅を建設する目的で東邦ガスが買収したが、戦争のため住宅は建てられず、戦後になってその大部分を「愛知淑徳学園」に売却。現在に至っている。

(7)星ヶ丘(戦後〜現在)

戦後、追分周辺の山は伐採され畑になったが、すぐに都市化の波が押し寄せた。
昭和31年(1956年)から、住宅公団による『星ヶ丘住宅』の建設がはじまり、昭和34年には東山公園・星ヶ丘間に市電が開通。
ただ この市電は、その後の地下鉄工事のため、わずか2年くらいで廃止になり、地下鉄開通までは「代用バス」が走っていた。

昭和35年には「愛知淑徳学園」が、池下から移転してきた。
昭和38年4月、「池下〜東山公園」間 2.5Km地下鉄開通。
昭和42年3月、「東山公園〜星ヶ丘」間 1.1Km地下鉄開通

私の、記憶にある星ヶ丘はこの頃からだが、まだまだ田舎という感じだった。
しばらく東京へ行っていて、十数年ぶりに帰って見た時は見違えるように変わっていた。
その間に、『三越・星ヶ丘店』もできた。 オリエンタル中村として 昭和49年10月に開店。 昭和55年、三越になったということだ。

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆

bekkan
TopPageへ戻る場合は この窓を閉じてください