東山・星ヶ丘の歴史
当時このあたりは日本の陶器製造の中心的な存在であった。
現代日本の窯業地、瀬戸、東濃(美濃焼)、常滑、四日市(万古焼)は、ここを中心にに広がっていったとのことだが、ここを中心に地図の上に円を描いてみると、なるほどと
うなづける。
ちなみに、末盛の「末」は「陶」とも書き、須恵器づくりの行われた場所とも言われている。
また、「東山」と「本山」の間に、「唐山」という地名があるが、須恵器づくりの
朝鮮帰化人(唐人)の住んだ山だから 唐山とつけたという説もある。
1200年も前、この地が日本の窯業の中心地として 煙をたなびかせていたかと思うと 感慨深い。
勝家は、最初 末森城の織田信秀(信長の父)、信行(信長の弟)父子に仕えた。
主君 信行が兄信長に反逆した時諌めたが、聞き入れられず やむなく信長と戦い敗戦。剃髪して罪を詫びたが信長はこれを強く咎めなかったので、勝家は深く感激し 信長のために身命をささげる覚悟をしたといわれている。
一社から、末森への往来には、当然ここを通っているはずである。
今の新池は、東山公園から星ヶ丘に向かっていくと左側、東山公園駐車場の奥にわずかに残っているだけであるが、昔は、東山通りのもっと右手、千種図書館・名古屋ユースホステルの麓や、東山工業高校あたりまでの、大きな池であった。
今池という池も実際あった。今の今池中学あたりで、馬を良く洗っていたことから馬池といわれていたとも言う。
また、池下というのは 蝮ヶ池という大きな池の下にあった集落の名前である。
この道は「中馬(ちゅうま)みち」といわれた。「中馬」とは「中継馬」のことである。信州から馬の背にのせてタバコや木地椀などを運び、名古屋で 塩や 干し魚 瀬戸物 綿などを仕入れて信州に帰っていった。
足助を朝発ち、その日は高針で泊り、翌日名古屋城下に入るというような行程が一般的だったようだ。
明治の中頃まで高針には、馬方宿があった。
大正元年(1912年)には、追分の北側に井上家の分家ができ、高針から名古屋市内に肥汲みに行く農民や、名古屋から「岩崎の御岳参り」に行く人たちを相手に、“おでん”や“そうめん”“タバコ”などを売る店を出した。
この店は、終戦当時まであったそうだ。
追分から右に入る(現在の名東本通)のが中馬みちであったが、一方まっすぐ行く道(東名インター方面)は「長久手道」といわれていた。
この長久手道の北側一帯は、戦前 分譲住宅を建設する目的で東邦ガスが買収したが、戦争のため住宅は建てられず、戦後になってその大部分を「愛知淑徳学園」に売却。現在に至っている。
昭和35年には「愛知淑徳学園」が、池下から移転してきた。
昭和38年4月、「池下〜東山公園」間 2.5Km地下鉄開通。
昭和42年3月、「東山公園〜星ヶ丘」間 1.1Km地下鉄開通
私の、記憶にある星ヶ丘はこの頃からだが、まだまだ田舎という感じだった。
しばらく東京へ行っていて、十数年ぶりに帰って見た時は見違えるように変わっていた。
その間に、『三越・星ヶ丘店』もできた。 オリエンタル中村として 昭和49年10月に開店。
昭和55年、三越になったということだ。