●シルクロード・布探しの旅

                           浅見るい 

  いやしの郷

 ぽっかり浮かんだ白い雲。どこまでも澄んだ青い空。
 まばゆく光を照り返す白銀の雪山。その山麓に、傾斜地にしがみつくようにして、周りを漆喰で固めた白い農家が点在している。
ポプラの林に続くなだらかな坂道の両側には、黄金に輝くマリーゴールドや白いマーガレットの小花が、その存在を主張するように豊かに群れ咲いている。
 色。光。いのちの香り。これが、初めて目にしたフンザの写真だった。初めて目にした「桃源郷」の風景だった。「ここに来るとすべてを許してもらえそう」という旅行バンフレットのキャッチフレーズも私の心をとらえた。
 そうか、フンザは「いやしの郷」なのか。いかなければフンザヘ。
 フンザが私を待っている。未だ見ぬフンザヘの思いが、やむことを知らぬ湧水のように、私の心を深く浸していった。
 ここ十数年、私は布を求めて、世界の様々な土地を訪れた。なぜ、布なのかがはっきりとはわからぬまま、とにかく布に引き寄せられるように、仕事の休みに世界をまわった。そして、この頃、感じることがある。
 私が布によって確かめたかったのは、人の手のぬくもりではなかったかと。
 布は、その糸を紡ぐ手、それを染める手、それを織る手、優しい手がかかって、
 一枚の曼陀羅のように小さな世界を広げていく。女の手仕事の世界である。
 どんなに素朴な1枚の布にも、その土地に生きる伝統や技術が、女の手を通して脈々とつながっている。ここに、「いのちのぬくもりがある」と思う。
 フンザの写真は、私が布に対して感じていたのと同じような「いのちのぬくもり」を感じさせた。「すべてを許してもらえそう」というのは生活の中で私を覆いつくしている、様々な疲れやしがらみやストレスを、薄皮をはぐようにいやしてくれるということだろう。フンザヘ行こう。
 私のいのちは温かくつつまれて、再び優しくよみがええるだろう。

フンザバレー



とにかく行くよバキスタン
 
 私にとって布、糸は、会ったその時から夢心地になってしまう麻酔薬、いわゆるダイヤモンドに目が眩む状態に似ている。胸にキューンときてその場に釘づけ、のちにいとおしさがじわじわと押し寄せてくる。いつも眺めていたい。自分の傍にいてほしいと思いはじめたらその場から離れられなくなる。写真集などで見つけた布は本物を確かめたい、手で触ってみたいということでイメージの世界にインプットされる。こうなったらもはや現地に行くしかないと思い込む。こうして私の布探しの旅は始まるのだが、今回は事情が違っていた。布についての情報を持っていなかった。染織の宝庫インドと一緒だった国だものきっと何かあるに違いない。
 パキスタンの布事情を知らずに出発ということになった。
 8月12日12時15分定刻に成田空港をフライト、約11時間でイスラマバードの空港に到着。首都イスラマバードに隣接するラーワルピンデイにあるバールコンチネンタルホテルに、日本時間午前1時すぎ到着。なだれこむ様にベッドに潜る。


カラコルムハイウェイはハベリハーンが基点

 現地ガイドはパキスタン、トラベル、ワルジー社のピークさん、英語で自己紹介があった。昨年までマウンテンガイドをしていたそうで皮膚は赤銅色に焼け長身の38才。痩せているが力はありそうだ。もじゃもじゃ髭ではないのでパキスタン人らしくなく、知人のイギリス人に似ている。知性も光るがいたずら心を隠した、ちょっと危ない雰囲気の男性。このピークさんに後で氷河の水をかけられるとは思いもよらなかった。
 ドライバーのシャージさんはがっしり型の長身で髭もじゃ、アラジンのランプに出てきそうな風貌。でも目はいつも笑みをたたえていて誠実そう。
  日本人のガイドはテキバキとこなしながらも細かい所に気を配る20代のふっくらした女性。2日目にしてツアーメイトの信頼をものにしている。
 他に3組の夫婦、私を含めた4人の単独女性、1名の男性総勢?名で28人乗り日本製の小型バスに便乗し、今日はラーワルピンデイから北上してチラスまで472kmの移動になっているポプラ並木やユウカリの林もみえる。ホテルを出発し1時間半頃、軍の兵器工場の長い塀に囲まれた一角を通過するとハベリハーンの町にはいる。
 カラコルムハイウェイ(K・K・H)は正式にはここが基点になっているということである。


カラコルムハイウェイをひたはしる
 
 午前8時30分、アポッターバードの町にはいる。標高1250mの山あいの避暑地サーバンホテルで休憩をとる。街はバン屋、雑貨屋、果物屋等の商店が並ぶなか、けたたましい警笛を鳴らしながら大小の車が行きかっている。中には日本での使用時の会社名や地名が車体の横にかかれたまま使用されている。一瞬、郷愁に誘われる。
 パキスタンのトラックの飾りは極彩色で鳥、花、蝶等荷台、ドア、屋根に描き込み、金色で全体をまとめ、更に二段式の屋根の上からひらひらと、これも又、極彩色の旗の様な物をぶらさげている。この超派手トラックは、粗く猛スピードで走り過ぎていく。街には女性の姿が見当たらず、白い木綿で出来たシャルワカミーズという、ワイシャツの丈を長くした様な上着と、ウエストを紐で縛るゆるいパンツをはいた男性ばかり、表情を変えずにじっと我々を見ている。ことばが通じればひとことみこと言ってみたいものだが。皆で2、3軒先の雑貨屋でミネラルウオーターを買う。2?入りポトルー本20ルピー(60円)バキスタンの最初の買い物である。

ハデハデ・トラック



やっと見つけたペシャムの布は?
 
 カラコルムハイウェイの完成式典の地ターコット橋を過ぎ、30分程でP・T'D'C(パキスタン観光公社)直営のモーテルペシャムに到着。レストランの窓の外に目をやると、百日草が一底の間隔で植えられている芝生の向こうには、インダスの流れが見える。
 セメントを流し込んだ様な鼠色の塊が波打って、上流の土砂を押し流す様に、次から次へと流れ去ってゆく。自分もあの渦にまかれて、砂になってしまいそうな錯覚に落ち入ってしまう。
昼食は主食にチャパティ(全粒粉をこねて発酵させずにタワーという鉄板の上で焼いたバン)、じゃがいもや挽肉の煮物、トマトのスライス、デザートにはメロン。瓜にありがちなちくちくした喉ごしの感覚はなく、ほのかな香と甘味が食欲をそそり、ひと口大の大きさに切ったそのメロンは、いくらでも口に入ってしまう。野菜が少ない食事には更にうれしい。
 昼食をほどほどにして、モーテルペシャム内にある衣料店に急いだ。店先には'K2やラカポシ等の山をプリントしたTシャツが大小並べられている。ショウケースの中には、何枚かの布が見えている。黒の薄いウール地に赤、黄色、青の糸でランニングステッチがしてある。花柄が多い。ネバールにあったものと同じで、巾一メートル強、長さは二メートル程のものだった。
 ショールとして他用するということだが、それにしては大き過ぎ、又、ブラウスに仕立てるには小さ過ぎる大きさだった。
 インダス川のV字形の谷を走り、バターンにいたる。KKH開通以前は小さな町だったが、今はラーヒスタン地区の中心地で多くの建物が建っている。ドライバーのシャージさんはここの出身だそうである。


名峰ナンガーバルパット

 ダスー、シャーティアル、を通り過ぎ、6時55分右手前方に雪山が見えて来る。パンジャプ、ヒマラヤの名山ナンガーバルバット峰で標高8125m。サンスクリット語で『裸の山」という。ヒマラヤ山脈の最西端の山で、周りは2000m以下の低地で、まさに裸で立っているように感じる。又、数知れない登山家の命を奪ったことから「人喰い山』とも呼ばれている。ネパール、ヒマラヤに属するエベレストが世界最高峰で8848m、2位がカラコルムのk2で8611m、バンジャプ、ヒマラヤのナンガーバルバットは世界第7位の巨大な山だ。
                                                                              
チラスの熱い夜
 
 午後7時15分、ようやくチラスのシャングリラ'ミッドウェイ'ハウスに到着。バスを降りると熱気が凄まじい。ホテルはインダス川岸に面して、赤いトタン屋根の平屋造り、レセプションとレストランのある本館と、宿泊棟は三列横並びに建ってあり、片側が通路で各部屋に通じている。ドアーを開け部屋に入ると、中は思ったより広く、ベッドの上の天井には大きな羽根の扇風機がありスイッチをいれてみるが、風が起きる程の回転の速さで廻っていないことがわかった。
 木製の冷房らしき物があるので、これもスイッチを入れると、ガーガーと騒音と共に冷風が起きるが、これも室内の温度に吸収され、部屋を涼しくする効き目などなかった。
 夕食は例の四つ切りにしたチャバティとサモサ。野菜のカレー煮。ビールの替りにオランダ製のノンアルコールピール(60ルピー)を飲む人が多い。さほど大きくないホテルだが、レストランは多勢で賑い、30分程別室で待たされた後、食べることができた。
 部屋に戻りシャワーを浴びて、午後10時ベッドに入るが、余りの暑さに眠れず、本を読むには暗い照明で、再度クーラーの始動を試みるが、やはり冷気は期待できなかった。気温の高さに加えて、湿度の高さも不快さも増してくる。寝る位置を移動してみるが、余り効果ない。そのうち窓の外が白みはじめ、時計は4時を廻っていた。

シャングリラ・ホテル



チラスの岩絵、タタ八二温泉、ユニークプレイス

 咋日にひき続きカラコルムハイウェイを北上してフンザヘ235kmの行程である。
 岩肌をむきだしにした山が続き、15分程川沿いを走るとサーティアールに着く。チラス付近には仏教時代の線刻画が多くみられる。
絵の大きさは、一メートル前後の物が多い。仏塔は方形の基壇に円形の塔、仏像は頭光、身光を後ろに、両手は印を結び、蓮華座に扶座している。5、6世紀にここを通過した中国の僧や、仏教衡が鋭い刃物状の物で、刻んだものであろうと伝えられている。岩絵はここだけでなく、付近に数箇所あるが、ハイウェイの建設のダイナマイトで、破壊されてしまったそうである。
 バスは更に北上して、タタバニ温泉に至る。右側の岩山から摂氏50度の温泉が流れているが、細い道を崖伝いに登ると、野天風呂があるという。皮膚病に効くというので、チラスあたりからこの風呂に入りに来る人がいるという。
 ホテルを出発して2時間半、砂漠を走り続けていたバスが、突然止まった。
 降りてみると、岩山の上には周辺一帯の略図が揃かれたバネルが建っている。見渡すと左手は灰色のインダス側の濁流、右手からはサンドベージュ色をしたギルギットの細い流れが、パレットの上の絵の具のようにくっきり色分けされ、合流しているのが見える。また、目を少し上にあげると、東に大ヒマラヤ山脈、西にはヒンズウクシュ山脈、中央の北には、カラコルム山脈が交差しているのが一堂に見渡せる。ここをユニークプレイスと呼ぶそうだが、まさに両横綱が正揃いというところ。

チラスの岩絵



オアシスの町、ギルギット
                                    
 ギルギット川を隔てて、次第に山が近づき、山裾の緑が色濃くなってくる。検問所を通過すると、間もなくポプラ並木の続くギルギットの市内に入る。  
 ギルギットはヒマラヤ山脈の北側に位置するので、南からのモンスーンは遮断され、雨量が少なく、完全な砂漠気候となっている。湿気がないので高温であっても不快感はない。ギルギットは、古来から中国のタリム盆地とインドを結ぷ中継地で、多くの商人や、仏教を求めた僧が通り過ぎて行った所。また、勇壮なポロ競技の発祥地は、このあたりだそうだ。昼近くに、P.T.D.C(パキスタン観光公社)のモーテル、チナールインに到着する。ホテル入り口の左隣りに、みやげ物屋がある。店先には数枚の布が飾られていた。店員が、マシーンで作られているピンクの方は安いが、もう一枚の方は、高いがハンドメイドなので大変良い品だと、盛んに後者を薦めていたが、それは、赤、茶等の木錦地に鮮やかな刺繍糸でサテンステッチが丸や、三角に描かれ、
その周りをチェーンステヅチが囲っている。所々に子安貝もつけられている。織物と言うより端切れを合理的に集めて作ったバッチワークと言えよう。見本帳の一部を張合せたようにもみえる。
これは「見てるだけ」に留めておこう。ギルギットは3日後に再訪するので、昼食を済ませてバスは早々に出発した。


シルクロード跡

 ハイウェイに入ると、次第にオアシスは遠のき、左右に灰色の断崖絶壁が続く。午後2時頃ゆくてに車が2台停車し、その前にブルドーザーが動いている。見れば、右側の絶壁から大量の土砂が流れ込み、道路を埋め尽くしている。「5分程で除去作業が終わるので待って。」ということだったのでやむなく車中で待つ。
 ハイウェイはダイナマイトでインダス川に沿う断崖を発破した後、ブルドーザーで平坦にならしたもので、側壁には殆ど補修工事は見られない。従って完成以来20年たった今も、落石や土砂崩れなどが頻発し、その都度、軍の管理班が出勤して路面の保全にあたっているようだ。
 バスは左右に岩山のきつ立する中を走り続け10分程して止まった。
 「あれがシルクロードです」とガイドの三浦さんが指差す方向を凝視すると、インダス川の対岸には、土砂崩れした岩肌が、のっぺりと三角形に広がり、その下方をうねうねと低い草木が、横並びに20メートル程続いているのが見える。岩また岩の茶褐色の世界で、そこだけが緑の線になりシルクロードを旅する人を導く様に、静かに息づいている。道幅は2m弱だが土砂崩れ等で塞がり、所々途切れているので残存するシルクロードの長さは測定できなぃということだった。                   
 旧道の北はパミールから中国の西安まで、南はインドやガンダーラに向かう。そして西へ向かえばペルシャを経てローマまで続き、全長9000キロメートルにも及ぶ、長大なパイプラインになっている。
このシルクロード「オアシスの道」が多くの人に往来されたのは、その沿線の天山山脈、コンロン山脈、ヒンズークシュ山脈等、大自然の難所があったにもかかわらず、それらの山脈の麓には流水や、湧泉に恵まれ、大小のオアシスが発達したからだと言われる。荒涼寂寞たる境に、この細い道を辿りながらオアシスを求めて歩く人々は、どんな思いでいたのだろうか。何を求めていたのだろうか。断崖を縫って続くこの道を追って見ていると、数頭のラクダに荷を積み、商人が黙々と歩く姿が見えたような気がした。

シルクロード跡



いよいよフンザ
 
 1時間程走ると緑も深くなり、所々に、オレンジ色の実をつけた杏の木を見つける。まもなくラカポシ展望台に着く。ここは、ラカポシの北面を一望出来る一等地で、緑の大斜面の上に7788mの雪山ラカポシが、前面に氷河を抱えてそびえている。氷の塊のような雪山を見て、再び目を落とし、人々の半袖姿を見ると「今の季節は何?」と一瞬迷ってしまう。展望台にはいくつかのパラソルと椅子が置かれ、人々がチャイを飲みながらくつろいでいる。地元の子供達が、水晶の原石を持って売りにくる。1個20ルピーだそうで、同行の酒川さんが「ジャパン スタデイハード」と子供達と笑顔で話している。ポールペンと交換してもらったそうだ。
 午後4時5分、フンザのカリマバード入り口の村ガネシュに到着。あいにくジープがなかったので、そのまま重い車体を左右に揺すりながらバスは細い坂道を登りつめ、4時30分、カリマバードのホテルバルチット・インに無事到着する。


桃源郷フンザ

 ホテルバルチット'インは、道路に面したレストランが2階になっており、宿泊棟はポプラや、果樹の茂る傾斜地に建ち、全面の揖鉢状の一帯は熟した杏や、百日草、マーガレットの花々が、緑の中に赤や黄色の色どりを添えている。ポプラの林が続く上部には、古くからこの地を支配したミールの古城が見える.現在はミール制は廃止されたが1974年?月までは、フンザ・ステートとして内政一切がミールという藩主にまかされた、パキスタン国内の自治王国だった。
 更に見あげていくと、右奥にウルタル峰、(7388m)、左にラカポシ峰(7788m)、女性の人差指を立てた形のレディスフィンガーも銀色に輝いている。6000メードル以下の山には名前がないとガイドのピークさんの話である。
 荷物を部屋に置いて一休みした後、ホテル周辺を散策しようということで、レセプション前に集合。ツアーメイト全員で、カリマバードの村にでかけた。
 ホテルの後方の砂地の小道には、ボブラ並木が日陰を作っており、その根本には1、5メートル程の巾の用水路が、くねりながら統いている。水路は氷河から引いてきたもので、これを生活用水に使用しているそうだ。飲んでも大丈夫と、ピークさんが、石灰を含んだ白濁した水を飲んで見せた。
 しばらく水路に沿って歩いていくと、ピークさんが杏の木を揺すり、実を落とし始めた。直径5、6センチのオレンジ色の玉が、足元にコロコロと散乱した。それを拾い集めて氷河の水で洗い、皆に振るまった。薄皮ごとかじると、ほのかな香りと甘さがロの中にひろがる。
 「この杏は誰が食べても構わないんです」と、更にピークさんがつけ加えた。
 フンザは土地が肥沃で古来より不老長寿の里として知られている。1920年にイギリス人の医師の研究発表によると、フンザでは、胃潰瘍、癌、細菌性大腸炎、結核等の患者は皆無で、長寿者が多い。それは日常の食べ物に依ることが多いということだった。チャバテイ、乾燥インゲン、レンズ豆、牛乳、ヨーグルト、乾燥果物、特に杏の実は、種を摺りつぶして、食料や灯油にも利用されるという。  
 「氷河の水で洗った杏をロにできるなんて!」とピークさんの手のひらにのせられたルビーのような杏をひとつふたつと口に入れた。
 ピークさんの自宅はミールの故城の近くにあり、自宅に戻ったピークさんはシャルワカミーズというワイシャツの様な形の丈が長い上着に、ウエスト部分をひもでしぼったゆるやかなズボンをはいている。布は白い木綿とレーヨンの混紡で、肌につかずサラサラしている。動き易く涼しいそうだ。用を足す時には、かがんでズボンの裾から男性自身を出して、するそうである。    
 いつの間にか近隣の子供達が集まって来て、我々と歩調を合わせている。男の子達もシャルワカミーズを着ている。女の子は花柄のワンピースを着て、目元を青く化粧している。又、彼等の中には青い目を持つ子もいて、肌は白く、彫りも深い。フンザはアレキサンダー大王の率いる遠征軍の、末裔が住む土地と言われるのもうなずける。
 30分も歩いただろうか、フンザバレーの斜面に、点在する民家を見おろすように、四角い大きな建物が見える。故城であることは一目瞭然で、派手さはないが、一種の風格をしのばせている。現在は、閉鎖されているということなので、そこでおり返して、ホテルに向かう。夕食はチャバティと、じゃがいも、大根、キャベツ等の野菜と卵で、ここでもアルコールはない。食卓も質素なので早めに終わる。
 客室はレストランを出て、外の階段を降り、コンクリートの廊下を渡る。あたりは既に暗闇に覆われていて、蛍光灯の弱い光が足元までのぴている。ふと、前を見ると、黒々と大きな姿のウルタル峰が、立ちはだかっていた。その大きな手に私の身体全体が、掴まれたような衝撃がはしった。昼にも増して山は大きくそびえ、その力を誇示していた。じっとしていると、すこしずつその腕の力がぬけて、私の身体はコンクリートの廊下にボンと置かれた。「どうだ?フンザは?」と山が聞く。
 「私は都会育ちなので、山のことは全くわからないのです。でもフンザは好きです。」
 濁流が渦巻く渓谷、吃立した千じんの岸壁をぬってやっとフンザにたどりついた。その山々が受け入れてくれていると認識している自分を感じた。「何故だろうか。」考えていると山も静かに待っていてくれる。今、都会では人間が、強引に力ずくで近代化を押し進めている。
それは有無を言わせない冷たさを伴い、人の心をかたくなにさせる。でもフンザは違う。
 力ずくでもなければ、執拗でもない。人間と自然とが、お互いを認めあって共存する優しさと、強さがある。それは数千年もの昔からの営みの歴史だったであろう。
 そう、ここは、桃源郷フンザ。4月には桃色の杏の花が、このフンザの谷を埋め尽くし、夏には、その実がたわわにみのる。この自然の恵みを受けて、人々は厳冬を静かに送ることができる。再び目をあげて山を見る。山は黒く雄大な姿を、ドカンと私の前に横たえた。こうして私は、山に対して初めて不思議な興奮を体験した。
 今まで山は、遠くから眺めているだけで、ただそこに在る物という概念しかなかった。
 こんなに身近で心を揺さぶられるとは!父親のようでもあり、恋人の様でもあり。

  

フンザの子供達             ホテルからウルラルを望む



ホッパー氷河

 チラスの寝不足を解消しなけれぱと思いつつ、昨夜も部屋にかえり、コーヒー等を飲みながらー人の夜を楽しんだので、寝不足を回復できぬまま、朝を迎えた。チッ、チッという小鳥の声で目を覚まし、そっと窓の外を見ると、鳩をスリムにさせ足を長くしたような鳥が、コンクリートの廊下をチョンチョン跳ねていた。ドアを開くと冷たい空気に包まれる.空はウルタル峰のなお遠くまで、蒼く澄み渡っている。
 午前中はホッパー氷河見学で、ホテルの前庭に9時集合。3台のジープに分乗し、出発する。運転手のとなりに私が座り、後部席には鎌倉の和食レストランの経営者とその御主人で、4人乗る。千明(ちじら)さんは「自分の店が女性誌に載ると、とても忙しくなるの。薄利多売よ。今はちょっと暇ができたので出かけてきました。是非お店の方へいらして下さい」と矢つぎばやに話をされる。ピンクの帽子に花柄のワンピース、銀色の紐靴で、鎌倉の大屋政子といった雰囲気を持つ方で、店のお客の話、旅行、経済に至るまで話題も豊富で、話が途切れることはない。運転手が"do you like music?"と聞くので"yes"と答えると、テープをかけてくれたが、雑音も一緒にピーピー、ガーガー。ことばも不明だがメロディも明確に聞きとれない。ホッパー氷河はカリマバードの南方、南北に走るカラコルムハイウェイを右折して  ナガルという集落の先にある氷河である.
 ハイウェイを抜けると、ジープは次第に山あいの細い道を走る。道巾がジープの巾と同じ位なので、身を出せばそのまま左の絶壁に転落しそうで、思わずバイプの手すりに力がはいる。又、湧き氷が小川になって、右の崖から道路を塞ぎ、左の崖に滝となって飛沫をあげている。これはもう先には進めないのではという間もなく、ジープはその小川を乗り超えてしまう。
 どの位走っただろうか。谷を抜け、人家が左右に見え始めて、パラソルとベンチが並ぶ休憩所に到着する。「ここから歩いて30分位でホッパー氷河と青い湖が見えます。とガイドの三浦さんの説明があった。寝不足の体と、スリル満点の緊張とで、参加は留めるべきか迷ったが、せっかくここまで来たのだからと、メイトと共に歩き始める。大きな石はよけてあるが、小石と砂まじりの急な斜面を下り始める。坂道といっても頼りになる木等はなく、体重がつま先に集中し、感覚も鈍くなっている。腿のあたりも緊張で、固くなる。
 3、40分たっただろうか、ようやく三浦さんが「あれがホッパー氷河です」と説明する方を見ると、氷の塊の上に泥をまぶしたような物の一部が見えた。青い湖が見える筈だけど、氷河がずれて見えないらしい。氷の亀裂が太陽光線に反射してそれはそれはきれいな、青になるという。
 更に3メートル位登坂になっており、「もう少し見えるから行きましょう」と三浦さんが言った。やっと河をそばで見える所まで来たのに[まだ登るの?」と思った瞬間、胸が詰まり、息苦しくなった。体の異常を周りに伝えながら、平らで大きめの石を探した。そこまでの意識は明確だったのだが、その直後に気を失ったらしい。「浅見さん」と遠くで私を呼ぶ声がする。突然、顔に冷たい水がかけられた。立てていた足が伸ばされ息苦しさが取れてきた。今、自分がどうやら地面に横になっていることがわかってきた。更に冷たい水がざんぶりざりとかけられ、次第に意識がはっきりしてきた。その氷のように冷たい水は氷河が溶けた水の川から、ピークさんが手で汲んでかけたものだった。ここは標高2000メートル程度なので、高度は問題ないと思うが、2日続きの睡眠不足と暑さのための貧血であろう。更に、上着も脱がされ、水に濡らして頭にかけられた。日陰が作られ、気分も回復してきた。帰りはおんぶをしてくれるというピークさんの好意を断わり、もときた道を登った。地元の青年がエスコートをしてくれて、ジープに戻ることが出来た。
 後で聞いたことだが、私が倒れたのを見て気分が悪くなった男性がいて、その人も倒れる前に、ピークさんから氷河の水をかけられたそうである。又、休憩所に着くやいなやエスコートしてくれた青年が20$を請求してきた。財布やカメラは、倒れた後、三浦さんに預けてしまったので、持っていないことを告げたが何度も請求にくる。グループの最後についていたピークさんに伝えると、5$でよいと言われた。
 手をかしてもらい5$とは申し訳なかったが、従うことにして、三浦さんから手渡してもらった。

 

後部中央がホッパー氷河



上部フンザの氷河群
 
 8月15日、今日はフンザの北部ゴジャール地域と呼ばれる上部フンザまで、足を延ばす予定である。ガイドのピークさんは、昨夜もバルテット村の自宅に泊り、今日は金暖日なのでイスラム教の安息日にあたるため、長女(7才)と、その弟達(5才、3才)を、連れての参加である。子供達は皆、色白で細面、目はぱっちりと美形。髪は金髪をしている。ピークさんも幼い頃はこうだったが、髪は次第に黒くなってきたそうだ。
 午前?時、ゆくてにカルンピーク(約6000m)の雪山が雄姿を現わし、しばらく走ると、左手に、万年雪に覆われた断崖がある。氷雪は道路のかたわらに崩落し、辺りは雪溶け水が、池のように溢れて道路を浸している。
 氷の塊を石で割りビニールに入れ昨日ぶつけて青く腫れ上がった上瞼を冷やした。心なしか腫れが引いたような気がする。
 昨年も氷河の雪が道路に落ち、トラック2台と人が死んだという。フンザの旅も命がけということか。政府の道路管理班による作業車が除雪のため手前に止まっていた。
 ようやく荒野の真正面に、雪の中から白銀の雪嶺フサニ・ピークが近づいてくる。なだらかな緑の斜面を通過して、バスー・ピーク(7610m)に懸かるバスー氷河が高みに現われる。バスがフンザ川に架かる橋を渡り、しばらく走ると、今度はバトウーラー・ピーク(7785m)の山裾まで灰白色のパトウーラー氷河が尾を引いている。バスー氷河は長さ9キロメートル、バトウーラー氷河は56キロメートルにも及ぶといわれる。
 バスを降りたあたりは、四方八方岩山になっており、所々カミソリで削り落としたようにのっぺりとした斜面もあるが、ほとんどは大小の石がころがったものが多い。気まぐれな氷河の流れが橋を破壊し、川の中に傾いている。逆さになった橋脚の一方のみが、宙に浮いて、その力の凄さを物語っている。道路脇の少しの草木が、灰色の世界を更に強く印象づけており、時々巻きあげる風が氷河の機嫌をそこねない内に、帰った方が良いと言っているようだ。

道路をふさぐ氷河の塊



グルミット村

 昼食をとるためグルミット村のマルコポーロ・インに到着。町の中央にある小さなホテルでマリーゴールド、百日草、芙蓉、薔薇と日本でも馴染み深い花花々が溢れるように植えられ、その北側には鋸の歯のようなカールンコーの山群が特異な姿を見せている。
 昼食はバイキングでいつものメニューの他にヤクの肉の焼いたものが出ていたので食べてみると筋ばった歯ごたえと牛肉に似た味だった。
 食事が始まりしばらくすると1人の小柄な老人が部屋の片隅にある椅子に腰かけシタールを演奏し始めた。彼は雪焼けで頬が赤く穏やかな表情をしている。フンザ帽には烏の羽根をつけている。若い頃、大失恋の後に家を捨て、演奏しながら放浪し、今ではチップを手にしては部落に帰っていくのが日課だそうである。
 ホテルを出て近くに点在する博物館や夏の離宮跡、モスク跡等を見て歩く。博物館と言っても物置き小屋のような建物で木製の扉を開けると、農民の生活用具、槍、銃、獲物まで悠然と置かれており、なかには長くて大きな動物の角がある。ピークさんによれば、このあたりに棲息する野生の羊、アイベックスのもので、ハンターにとっては最高の獲物だそうである。ここを出るとポログランドだという広場の奥にフンザ、ミールの避暑用の離宮が建っている。バルコニーを設けた木造二階建てで、すでに使用されないまま埃にまみれ廃虚になっている。モスク、礼拝堂跡を見学のあと午後3時30分ホテルに帰着。

  

シタールの演奏           グルミット博物館



ミールパレス                         

 30分程休憩のあと、カリマバードにある通称ミールパレスを見に行く。ミールの邸宅はバルテット・フォートの老朽化に伴い、近年建てられたもので瀟洒なヨーロッパスタイルの二階建ての建築で緑の林の中に際立ち、構内には人陰はなく静まりかえっている。左手の小高い丘に登ると、そこはミール一族の墓地になっており、中央に円すい形のステュウバ(仏塔)が建ち、奥まった所には大理石を横たえた先代の墓がある。また、地面に4、50センチ程の穴が所々掘られており'頭蓋骨が陽に照らされていた。


カリマバードバザール
 
 ミールパレスの丘を下り右折し、砂利道をすすむとカリマバード、バザールの店が見え始める。バザールは、車がやっとすり違えるかと思える程の道幅で、ウルタルの方向にゆるやかな登り坂になっている。
 店は100メートル位統いているだろうか。店が並び始めるあたりに立看板があるので、近寄ってみると、日本語で「チキン、たまご」と白いペンキで書いてある。その後方の余り大きくない建物がレストランらしく、テープルと椅子が並べられている。ホテルの卵料理は目玉焼きだったが、ここではどんな料理になって出てくるのだろうか。
 日本語で書かれているのは、やはりここを訪ねる日本人が多いのだろう。レストランのとなりの店は布製品が所狭しと置いてあった。回転する帽子かけに「パルツィン」と呼ばれるクロスステッチ刺繍でびっしり埋め尽くした帽子がかけてある。鮮やかな色で、そこに南国の巨大な花が咲いているようだ。これはフンザの女性の衣装だそうだが、かぶっている人は見かけない。そもそも街の中で女性を見ることが少ないのだが、帽子に関してはアルテットフォート近くで、フリルのついた別珍のワンピースにこれをかぶり杏売りの店番をしている少女に出会ったのみである。
 道の向い側から日本の演歌に似た歌声が蘭こえた。ガラスの中に歌手らしき人の顔のカセットテープがびっしり並んでいる。店員にあなたはどれを薦めるか」尋ねると、カールした髪を肩までたらした濃い化粧の女性のものと、髪をオールバックに固めた四角い顔の男性のものを「フェイマスシンガー」といいながら棚から出してきた。2つで2、5$だった。日本でいえば小林幸子や五木ひろしにあたる歌手ではないだろうか。
 イスラム團だけにコーランのテープも3本がーセットになって売っていた。
 テープ屋の隣に新建材の臭いがしている新しい店がある。刺繍のタベストリーが壁面いっぱいに飾られ、店の中央にはパキスタンの自然をテーマにした本が置いてあった。整然とまとめられた店内はモダンなムードをかもしだしている。逆にカリマバードのバザールの雰囲気を崩しているのだが、店員も一方的に話しかけたりせず遠まきにこちらを見ている。タペストリーは茶系統の布に、赤、ピンク、グリーン等ししゅう布をバッチワークしてある。丸、三角、四角、を形どったものが多く、形の置き方や色づかいにぎこちなさを感じた。100年位前の物だということで数枚、写真に納めさせてもらい店を出る。バザールには、食料品を扱う所が多く、コーラや、ペプシ、それにパキスタン製のバック詰め紅茶も並べられている。一パックが1$や2$と求めやすく、みやげ用にとビニール袋に、詰められるだけ買っているツアーメイトもいた。
 坂を登りつめた所に他の店の3倍程の広さの店があり、数名のツアーメイトと硯くことにする。
 入り口附近には色、柄、共に様々なカシミヤウールが下っている。ガラスケースの中にも色違いの物などきちんと並べられ、ここは他の店とは違うぞという品揃えで、5、6名の店員が商品の説明をしてくれる。布地はカシミヤウールがほとんどで、無地のところに花やベーズリー模様の刺繍がほどこしてあるものが多い。
 その刺繍も木綿の糸、または絹糸を使用しているかどうか、ハンドメイドか、機械刺繍かにより値段も大幅に違ってくる。
 比較しながら見せてもらう内に、店員が奥のケースから1枚のしなやかな布を大事そうに出してきた。白地のカシミヤウールに淡いピンクとプルーの絹糸で花柄が細かく刺繍してある。ハンドメイドで品物は最高級の物だという。「王者の布」といわれたこのショールはカシミヤ地方の標高5000mの高地に棲息する野生山羊の体毛から織られていて、この山羊は春から夏にかけて、柔らかい体毛を岩場の木々にこすりつけて、落とすらしい。カシミールの人達は1本1本拾い集めて更に優れたものを選りすぐって作る。店員はやわら自分の指のリングをはずし、その輪の中にこのストールを通し、この大きさのものがこの細いリングを通る程、しなやかなものということを強調して言っている。リングストールと言い、日本円にして80万円位するそうだ。しっとりとしたカシミヤの感触に、絹の光沢。うっとりと眺めている私達が買う気配がないとみてとるや、店員はさっさと後ろのケースにしまっていた。
 80万円といえばこのような旅行が3回弱できる計算になる。絹も良いけどカシミヤのタッチも良いなあと他のものを眺めていると、「浅見さあん」とツアーメイトの一人が私を呼んだ。「これ2万円のところ1万6000円にするって。半分ずつ買いませんか?」と言ってきた。その人の手にのっている物は淡い茶色の無地でふんわりとしたやさしい手ざわりのカシミヤだった。広げてみると一入分3メートル弱はありそうなので、これならブラウスに仕立てられるということで、買うことに決めた。80万円でなく、8千円だけど、「このカシミヤタッチがいいわよね」とツアーメイトと目を合わせて笑った。このカシミヤもしなやかだけどリングに通るか否かはまだ確かめていない。 
 店の裏口のドアーがひらいて、添乗員の三浦さんの姿が見えた。傍に行ってみると、ビークさんと2〜3人の人達が歓談しているところで、熱いお茶をごちそうになった。ここはピークさんの親戚の経営している店だそうだ。すでに陽は暮れかかり、バラバラと雨も降ってきた。カシミヤが濡れないようにメイトと共にホテルに急いだ。

     

ししゅう布         パルツイン      王者の布



フンザからギルギットヘ

 今日はいよいよフンザを発って、ギルギットにむけて南下する。早めの朝食をとり、8時にバルテット・インを出発する。
 「さようならウルタル。あなたに会いに必ず又、来るからね」バスは往きに通った景色を車窓にやり過ごしながら40分程走った。前方にナンガーバルバット峰が見え、右手に断崖が迫り、左手数メートル下にフンザ川が流れる。
 ここにしばらく停車する。「この辺りはチカスといってガーネットが見つけられますよ」と言うピークさんの案内で、しばらくの間、急な斜面を宝探しに興じた。米粒やそれ以上のものも見つけることが出来、手の中が満杯になったところで、バスは再び出発した。
 ラカポシ展望台、グワチを経てダニヨールの集落に入る。ここはカラコルム・ハイウェイの建設工事で死んだ人遠の慰霊碑と、墓地があり、これを通過して30分後ギルギット川に架かる橋を渡れば目ざすギルギットの街は目と鼻の先にある。


ギルギット
 
 4日ぶりにホテル'チナールインに到着。12時にホテルを出発し、カルガーの磨崖仏を見学に行く。
 磨崖仏はホテルから西方10キロ、ギルギット川の上流カルガーの谷にある。ジープを止めて、しばらく川沿いに歩く。そこはかとなく良い香りがして、足下を見るとピンクのミントの花が咲いていた。「グッドスメル」と言っていると、ピークさんが、そばにある低い草をちぎり、見せてくれた。これも良い香りで「ハッシッシ」と教えてくれた。
 なお高みに登って行くと、前方に渓谷が現れ、その上方には高さ30メートル程、黒々とそそり立つ岩山が見えてきた。
 「カルガーの磨崖仏」はこの岩山の上方に四角い縁取りの中に彫られていた。穏やかな表情の立ち姿で、高さ3メートル位ある。7、8世紀頃の作であろうと言われている。
 昼食をとるためホテルに戻ると、ガイドの三浦さんとピークさんが慌ただしく、行き来している。鎌倉の千明さんが怪我をしたということで病院にいくそうだ。車道に道路を横断するかたちで帯状にもっこりと盛り上がった所がある。そこには水の流れる溝が通っていて、スピードを制御する役割もある。千明さんのジープはその盛り上がった所を通過する際に徐行しなかったので、千明さんは跳ね上がりジープの幌を支えているパイプに鼻の付け根をぶつけたらしい。
 しばらくして千明さんが戻ってきた。鼻に湿布がされ、目のあたりが腫れて痛々しい。「御迷惑をおかけしました。飲物は私の方で払わせて頂きますのでどうぞ召し上がって下さい。」と気配りをしていた。


ギルギットのバザール
                                   
 昼食後は再び、ギルギットの収内見物に出発する。市内で最も賑やかな通りシネマ'バザールを通過し、警察署、郵便同等が並ぶ。
パキスタン北部で最大といわれる塔のモスクが建っている。このモスクの手前でバスを降りる。
 角をまがると、狭い通りになり、ラジャバザールが続く。雑貨屋、衣料品店、菓子屋、羊肉店等、小屋が軒を連ねている。道の突き当たりにはアーチ型の門の聳える吊り橋が見える。ギルギット川の急な流れをまたぎ、褐色の対岸に架けられている。アジア最大の吊り橋だと言われ、川辺には水遊びに興じる少年遍の歓声が聞こえる。
 橋の手前にフンザ帽を売る店があるので立ち寄る。頭の大きさよりやや大き目の円形のトップに20センチ程の円筒形の布が縫い合わせてあり、その部分が頭の大きさに合わせた糸の芯にくるくると巻かれたものでバットウと呼ばれているとか。このあたりの男性は小さ目の頭にスッポリと冠っている。白い臓をたくわえたおじいさんが冠ると赤銅色の顔だちとマッチして年輪が感じられる。なかなかムードがあっていいものだ。保温力もあり、かぶり方を工夫すれば老若男女のおしやれな利用ができるのではないか。斜めに冠ってスモックを着れば画家風、まっすぐ冠って前髪をたらすと女学生風というように。羊毛で出来たグレーのものと、ラクダの毛で出来た明るい茶色のものと二つ求めた。
 40ルピーで約1200円でラクダは自分用に、羊毛は息子にみやげ。
 大通りのサダルバザールには香辛料屋が天秤を使用している。クミンシードを10匈買う。「日本で何をしているのか」と尋ねられ、「教員」と答えると「それは良い仕事をしていると言っていた。この辺りの人達は英語を話す。質問によっては返答に困るのだが、それ以上は聞いてこなかった。
 ホーローびきの洗面器のようなものがならんでいるので裏を見ると、Made in Chinaと書かれている。カラコルムハイウェイを通ってここに持ちこまれるのだろう。白地のところに赤や、黄色の大きな花の模様が描かれている。
 布地を売る店が左右に続いているが扱っているものは原色の無地で、化繊が多く、尋ねても絹はなかった。余り客も来ないと見えて布の山の中で、体を横たえ、深い眠りに入っている店員もいる。
 1本裏の路地に入るとテーラーが見えた。我々が学生の頃、使用した黒塗りの足踏み式ミシンを使用して、若い男性がワイシャツを縫っていた。カメラを向けると、手を休めてカメラに納まってくれる。八百屋、肉屋、文房具店とバザールは日用品を売る店が統いているが、店番をしているのはどこも男性で、女性の姿は見当たらない。
 モスクの近くに広いポログランドがある。ポロは馬に乗ってステックで木製のポールを叩いて得点を競うスポーツでパキスタンでは勇壮なスポーツとして人気が高いが、もともとこの北部地方に中央アジアの遊牧民族から伝えられたものである。
 およそ1時間の見物が終わりモーテルに戻り、午後3時50分ギルギットを発って、チラスに向かう。インダス川の畔シャングリア'ミッドウェイ'ハウスホテルには午後7時に到着する。


イスラマバードにて
 
 そうだ!綿の種を買って日本で育ててみよう。薄い黄色の和紙を束ね、縁のジュータンに散りばめたような綿の畑を何度かこのバキスタンで目にした。そう思ったらいてもたってもいられない性分の私はツアーメイトを誘いイスラマバードのバザールに繰り出した。町の中で行き交う人は皆男性ばかりで女性は見つけることが出来なかった。男性だけの社会に踏み込むのは気がひけると共に少々不安をおぼえ、女性3人組みは心なしか足早になっていた。
 黒山の人だかりがするので3列目ぐらいから覗きこんだが、中心にいる男性が周りの男性に声をかけ、なにやら賭ことでもしているのではないかと思えたが、我々を見つけ「見るな」と合図をするので急ぎその場を離れたた。
 バザールの入り口はコンクリートで固めた門があり、(昔の小学校の門のようで地味目)中の様子を何おうとしていると、そこに立っていた年令不肖の男の人がどうぞ、どうぞというふうに手招きした。
 ここでも頼りたい女性の姿は見えなかったが、怯まず進んで人ってみた。
 どこのバザールでも同じ様に野菜を雛段のように積みあげている八百屋、積み上げた商品の一番上の壁際に座りお茶を売っている店(あんな高い所では商売もやりにくかろう)、雑貨皇、玩具や、と同じ商品を扱う店がひしめきあっている。スパイスがあったのでミックスしてもらった。
 「モアーホット」と辛めを要求すると店員が首をかしげていたが、かまわずゲットする。このスバイスは帰国して同僚に分けたところ「おいしい!」と何人かの人にいわれた。ターメリックを主にしたそのスパイスの中に、厚手のちぎった葉が入っており、正体不明のそれが料理のー役かっているようだ。目指す種屋を見つけ、コットンシードを欲しいと言ったところ店員は分かってくれず、困った。自分が着ている服を摘み、「ウール、シルク、レーヨン、コットン」と言う。また、「ソーイング」といって縫う仕草をするのだが増々理解出来ない様子。
 それでミシン用に巻いてある木綿糸をカタン糸と日本では言っていることを思いだし、コットンではなく「カタンシード」と言ってみたらなんと
それで通じ、やっと綿の種を手にすることが出来た。帰国後、家の庭にかなりの量の種を捲いた。それらは淘汰されながら3本の茎が伸びて、黄色の花をつけ、終わりに弾けた花のあとには真っ白な綿をつけた。固い苓に割れ目が入り、少しずつその白さを広げていく様を1日に何度も確かめにいった。
 ガクが地に蕗ちる頃にはまわりの空気を扱い込んで広がり、3倍強の大きさになった。茶色の茎の先に実った純白の綿の花はその姿を変えること
なく我が家の篭に今でもおさまっている。

スパイスの量り売り



パキスタン最後の夜

 癒しの旅も最終の夜を迎えることとなった。
 夕食迄の時間をホテル内の店を見てまわることにした。どこの都市も同じだがここのホテルも貴金属、衣料品(手工芸品)、インテリアを扱う店、本屋などがあり時間合わせにはちょうど良い品ぞろえになっている。民族色が店内に溢れ、木彫品や金属類、布も展示している。
オレンジ色のバンジャビスーツが目にとまった。U字にあいたネックで、長そで軽くフレアーのはいったワンピースで胸元には全面に小さな水玉の手刺繍が施してあり黄色、黄緑、紫、赤が品良く華やいでシルクとレーヨンの混紡で、試着してみるとサイズもピッタリ、しなやかに体を包んでくれる。共布でショールとパンツがついていた。最後の晩さんはこれを着て出席することに決めた。いそいそと包みを抱えて帰ろうとするわたしを背後から「マダム、マダム」と店員が呼びとめた「プットウ、プットウ」というので何のことか理解出来ずにいると、先ほど自分を映した鏡に手をかけ、さっと引いた。その鍍の後ろは数段の棚になっていてびっしりと仏頭が並べてあった。「本物」といっているが、本物がこんなにも沢山ここにある筈はない。あきらかにレプリカだと思うが、商魂逞しく本物と言いきっている。ここで店員と言い争う気はないので、ホテルの自室に向かう。
 それにしてもなんて素敵なドレス。自分の体につかず離れずのサイズでフィットしている。
 晩さん会では「ビューティフル」「プリティ」「バキスタンに残る?」などの声があちらこちらから聞こえ、至福の時を迎えた。

パキスタン最後の夜



シルクロードを旅して
 
 仕事の休みに布を探しに海外へ行く。探すと言うよりは見知らぬ恋人との出合いを期待して会いに行くと言った方があっているかもしれない。
 手織布は各々国柄や土地柄で違い、織手によっても違い、同じ物はない。キューンと胸が締めつけられるような感動をうける。たとえようのない美しさ、しなやかさ。私との出合いを待っていたかのように語りかけてくる。
 どんな暮らしをした人がこの布を織ったのか。少女かしら?おばあちゃんかしら?イメージがどんどん膨らみ、そっと布に触れる。
 ひとつひとつ手触りが違う。ザクザクと粗く織られた布は布目から風が通り過ぎ.しなやかに織られたものは光が通る。耳をすませば布達の語らいが聞こえてくるような気がする。布達の語らいに繊手の伝言も受け止める。
 どうしてこんなにも美しいのだろう。
 その布に丹精こめた繊手の心意気にふれる。そして命まで触れ勇気を頂く。
 私も丁寧に丹精を尽くした仕事をしよう。
 がんばる気持ちを頂く。また、明日もがんばる気持ちをいただく。