『ラブホテルでラブソングを』



 ヤラハタ。

 オレたちの間では『エイズ』かなにかのように使われている言葉だ。 いつからだろう。中学の頃だったか高校の頃だったか。とにかく、覚 えたときには本当に、エイズのようなものだった。

 15、16。ずっと遠い世界の話だった。17、18。まだ遠かっ た。19。急に近くなった。そして今、思い切り深刻な問題になって いる。

 ヤラズのハタチ。

 つまり、20歳を過ぎても、まだ童貞だっていうこと。

 知り合いの何人かは、それだけは嫌だといって、ソープにはしった。 もちろんオレだって、そんなの願い下げだった。

 テレビや雑誌に出てくる。その手のインタビュー記事のどれを読ん でみても、みんな初体験は17か8だと言っている。中には、それで も遅いくらいのことを平気でいうヤツさえいる。

 たまに、

「僕は遅くてね・・・」

 なんてコメントをみつけても、次には決まって、

「なんせ、19だったから(笑)」

 と続いているだけだ。

 世の中そういうものだろう。

 それだというのに、オレは・・・。

「28にもなってまだなんです・・・」

 なんて人生相談しているようなヤツにはなりたくない。しかし、こ の調子だとオレも・・・。まずい。絶対に、まずい。

 来年の1月5日で、オレはハタチになっちまう。

 あと、一ヶ月しか残っていない・・・。



            &



 オレの名前は菊地一。一と書いてハジメと読む。まったく迷惑な名 前をつけられたものだ。なにをやっても『はじめ』になった試しはな い。

 しかし、誤解してもらっては困る。オレにだって、彼女のひとりや ふたりはちゃんといる。

 つきあいはじめて、そろそろ一年になる。この間の、彼女の誕生日 も一緒だった。新宿の高層ビルで夜景観ながら食事して、指輪をやっ て、バーで飲んで、公園でキスをした。そこまでは順調だった。

 そのあと彼女とは駅でわかれた。もちろんオレには『その期待』は 十二分にあったのだが、それを口にする、というか、態度に表そうか なあ、と思案しているうちに、彼女はいつも通りの素敵な笑顔を浮か べてこういった。

「もう帰らなきゃ」

 彼女の名前は久美子という。いや、『カノジョ』という呼び名が正 しいのかどうかはわからない。なにせ、オレの同級の岡林によれば、 『カノジョ』というのは『ナニ』をして、はじめて『カノジョ』と呼 べるのだそうだ。

 そうはいわれても、オレと久美子はもう一年近くもデートを重ねて いる。キスだってした。舌もいれた。お互いのために、わざわざ新し い携帯電話まで買って、これで『カノジョ』じゃないのだとしたら、 いったい久美子はなんだ?

 久美子はオレのことが好きだといってくれてるし、オレだって久美 子のことが大好きだ。ただひとつ好きになれないことは、いまだに 『ナニ』を許してくれない、というだけのことだ。

 なぜなんだろう。

 同じ大学の放送研究会で知り合って早二年。お互いに自宅だし、外 でしか会いないのは仕方のないことだとしても、いままで何度もその チャンスはあったはずだ。

 一緒に旅行しようかと誘ったこともあるし、飲んだはずみでそれと なくホテルに連れ込もうとしたこともある。

 そりゃオレだって、面と向かってそういうことを口にするのは抵抗 があるから、さりげなくといえばさりげなくだったかもしれないけれ ど、内心はかなり必死だった。いい加減わかるだろう、そんなこと。

 それなのに久美子ときたら、その度に笑い飛ばして、

「やあねえ、なあにいってんの」

 だって。

 そっちこそ、なあにいってんの、だ。

 明るい声でそんなふうに反応されたら、こっちだって、

「はは、冗談、冗談・・・」

 と笑うしかないじゃないか。

 もしかして、久美子は処女なんだろうか?

 歳ならオレと同じで、いや、いまはひとつ上か・・・、その歳で処女 ? そんなの国宝品じゃないのか?

 しかし、久美子ならおかしくない。正直いうと、どうもその辺りが よくわからない。処女だといわれればそうかと思うし、違うといわれ てもやっぱり納得するような気がする。

 決して清純潔白ってタイプではないし、適当も擦れてもいるし、頭 はいいし、可愛いし・・・。

 まあ、多少ひいきめははいっているかもしれないが、それでも、オ レよりまえに久美子にいいよった男がいなかったとは考えられない。 中学も高校も女子高だったらしいが、そんなこと関係ないだろう。

 久美子はそういう昔の恋愛話をはぐらかすのが実にうまい。これま たなぜなんだろう。

 例え久美子が処女じゃないからといって、そのことで、オレが久美 子のことを嫌いになるはずがないじゃないか。そりゃ、いくらかひけ めは感じるかもしれないが、そんなことで嫌いにはならない。好きで いられる。大丈夫だ。きっと。たぶん・・・。

 いや、やっぱり久美子は処女だろう。どうもそうとしか思えない。

 きっと父親が厳しいんだ。久美子は母親や妹の話はしても、父親の 話はしない。一度、仕事を訊いたら、

「ただのサラリーマンよ」

 といったきり、それ以上話をさせなかった。

 よほど反発しているに違いない。それでも、そんな父親の教育が確 実に久美子に影響を与えている。たぶん、そんなとこだろう。

 きっと韓国なみの貞操観念があるんだ。あちらの国のそれにはすご いものがあるって、いつかラジオで聞いたことがある。日本も昔はそ うだったのに、と解説の大学教授が嘆いてた。

 冗談じゃない。そのときオレは、いまの日本に生まれてきてよかっ たと、しみじみ感じたものなのに・・・。

 もしかしたら、久美子は「結婚するまできれいな体でいたい」なん てことを本気で考えているんじゃないのか。

 そうだ。やっぱり、国宝品だ。

 そりゃね、それはそれで、すごく立派なことで、そんな久美子とつ きあってるオレは、すごく幸せな男なのかもしれないけれど、でもな、 久美子、オレはどうなるんだ?

 おまえには話してないけど、オレはまだ童貞なんだぜ。

 ヤラハタだよ、ヤラハタ。

 気づいてないのか? 気づいてないんだろうな、やっぱり・・・。

 ねえ、オレはそっちまでおまえにつきあわなきゃならないの?

 結婚するまできれいな体でいるわけ?

 そんな殺生な。

 テレビで誰かが言ってたよ。靴と同じだって。履いてみなきゃわか んないって。だから・・・。

 こんなこと、久美子に面とむかっていえるわけがない。

 それにオレたちは、結婚とかなんとかを口にする間柄でもない。だ いたい自分の将来さえまだ未定だというのに、結婚なんてことを考え られるわけない。

 ただ、それでもオレは久美子が好きだ。

 先のことなんかわからなくても、いつか結婚するなら、相手は久美 子だと勝手に決めている。ほかの誰かなんて考えられない。しかし、 このまま童貞なのはいやだ。

 ああ、この際オレも、ソープにいっちまおうかなあ・・・。



            &



 12月の半ば過ぎ、オレたち放送研究会の忘年会があった。場所は 渋谷の外れにある小さなパブだった。

 オレと久美子の仲はすでに公認になっているのだが、オレたちもバ カじゃない。こういう場所では離れている。久美子は奥の方で盛り上 がっているし、オレはカウンター席に座って、ジントニックをなめて いる。

 久美子の周りには自然とひとが集まってくる。オレはそういう集団 を外から眺めていることが多い。久美子とつきあうようになってから、 その傾向にますます拍車がかかったような気もする。

 ひとりで頬づえついて、どうすれば久美子とデキるのか、なんてこ とばかり考えている。

「なに考えてんの?」

 いきなり耳もとでささやかれて、ドキッとしながらふりむくと、い つのまにか傍らに、大木薫が立っていた。

 やはり研究会の同級の女だが、久美子とはだいぶタイプが違う。い つも派手な格好をしていて、なんというか、いかにも遊んでます、っ て感じの女だ。ついでにオレのことをからかうのが好きらしく、どう もオレは気にいらない。

 ちなみに今日のいでたちは・・・ショッキングピンクのスリップドレ ス? ほとんど、ストリップ・ドレスの間違いではないかというほど に胸元が開いていて・・・け、けっこうあんな・・・ううん、ぶるんぶるん 。どうせ、一生懸命、よせてあげてんだ。それに、でかきゃいいって もんじゃない。形が大事なのよ、かたちが・・・。まった、下も短いな あ。パンツ見えるぞ、パンツ。金のアンクレットに、赤いヒール?  羽織ってきたのは毛皮のコートかあ? ちょっとアンタ、ほんとうに 女子大生・・・?

「どうしたのぉ、深刻そうな顔しちゃって」

 笑いながらそういうと、薫はオレの隣りに腰かけた。

 金色に染めたショートヘアの耳もとで、銀色のピアスが輝き、甘い 香水の匂いが漂う。深刻そうな顔だって? 哲学でもしているように でも見えたんだろうか。

「久美子とうまくいってないの?」

 なんだ、お見通しじゃねえか。

 改めて久美子の方を観てみる。

 こちらは純白のふかふかセーターに、くるぶし近くまであるグレイ の巻きスカート。茶色いブーツ。肌がでているのは顔と手だけだ。見 事な好対照というかなんというか。まあ、こうして見比べてみれば、 あっちは天使で、こっちは悪魔・・・。

「別にぃ。順調すぎるくらいうまくいってる」

 やっぱり、ここはこういっといた方がいいだろう。

「あらら、いってくれちゃって。なあんだ、つまんない」

 そういうと薫はバーテンに、スクリュードライバー頂戴、といった あと、再びオレの耳もとに顔を寄せてささやいた。

「それで?」

 かすれた吐息が耳をくすぐる。気持ち悪いわけがない。なんだって、 こんなに色っぽい声が出せるんだ、こいつは。

「それでって?」

「だからぁ。・・・うふっ、やることやった?」

 終りの方はほとんど聞こえない音量だったが、ちゃんと聞き取れた。 情けない話だが、勃起しそうになった。

「バカヤロ」

「アハッ、赤くなってる。か〜わいっ」

「おまえなぁ・・・」

 なんとか威厳を保とうとしてにらみ返すと、薫はカウンターに置かれ たオレンジ色のカクテルを飲み干した。喉もとが微かに上下する。これ また情けない話だが、その光景に見とれてしまった。

 こいつ、けっこう、ヤってんだろうなあ・・・。

 いきなりそう思った。すると、薫はそんなオレを見透かすように、こ ういった。

「わたし、菊池くんのそういうとこ好きよ。軽そうにみえるくせに、な んか純情なんだから」

「はあ?」

「あーあ、久美子がいなかったら、誘っちゃうんだけどなぁ」

 薫は改めておかしそうに笑い出す。やっぱり、からかってやがる。そ れでも、その横顔はドキッとするほど、色っぽい。わかっているのに、 勃起しちまう。

 ちくしょう。

 こっちこそ、久美子がいなかったら、犯すぞ、コノヤロ・・・。



            &



 久美子はしっかりしている。どんなに飲み会が盛り上がっていて も遅くならないうちに帰り支度を始める。そのまま朝までなんてこ とはまずない。それでも誰も悪くはいわない。これも人徳というも のだろうか。

 もちろんオレは久美子と一緒に店をでる。皆も当然のようにオレ たちを送り出してくれる。ちゃちゃをいれるのは薫くらいなものだ。 おそらくこれも、久美子の人徳のおかげだろう。



 駅に向かう途中、近道だからと円山町のホテル街を横切った。 毒々しいラブホテルの看板が嫌でも目につく。もちろんオレにとっ ては未知の世界だ。こんなところ一度でいいから気軽に久美子と入 れないものかと考えながら歩いていたら、当然無口になっていたら しい。久美子が話しかけてきた。

「どうかした?」

 いい加減、わかって訊いているんだと思う、絶対。

「別に」

「そう? ふーん、でもあれね、この辺ってなにか妖しいわよね」

 やっぱりわかってやがる。だいたい久美子はわざとこういうこと いって、簡単に場の雰囲気を和らげてしまうのがうまいんだ。

「あっ、見て、あのカップル。なーんか不倫って感じしない?」

 なにいってんだ。知らねえよ、そんなこと。こうこられたらオレ の方が照れてしまって、なんとか話題変えようとするじゃねえか。

「なあ、もうすぐクリスマスだな」

 うん。これはうまい展開だ。二人で過ごす初めてのクリスマス。う まくいけばあっちの話に持っていけるかもしれない。いくら久美子 でもイブなら・・・すぐそばにラブホテルもあることだし、ここでも いいかい、なんてねえ・・・、

「ねえ、そのことなんだけど・・・」

 ほら、久美子も乗ってきた。ん? でもなんか・・・?

「ごめんなさい!」

 え? なんだよ、なんでいきなり謝るんだ?

「どうしたの?」

「私、今年のクリスマス、ニューヨークに行くことになって」

「へ?」

「黙っててごめんなさい。でも、まだ決まってなかったのよ。ほら、 あなたにも変な心配かけたくなかったし。今日なの、なんとかチケ ット取れたって連絡あったのが。すぐに言おうとおもってたんだけ ど・・・」

 久美子が話している間、オレの方は呆然自失の状態になっていた。 だって、そうだろ? いきなりだぜ。ニューヨークだって? ホテル の名前じゃないんだろ? アメリカの? マンハッタンとか摩天楼と か、ああいうヤツ? うそだろ、そんなの今のこの風景に全然あって ないよ。

「ねえ、怒ってる?」

 オレがなにもいえずにいたからだろう。久美子は急に神妙な声を 出し、不安そうにオレの顔色をうかがっていた。

「いや、そんなことないけど・・・」

「ほんと?」

「うん・・・。ただ、あんまりいきなりだから、びっくりしちゃって」

「そうよね、ゴメン、許して」

 久美子は本当に申し訳なさそうな表情を浮かべていた。ヘタしたら 泣き出すんじゃないかと思ったほどだ。こんな顔はじめて見た。 考えてみたら、久美子が泣くところなんて見たことがない。

「バカ、いいよ、そんな」

 こういうしかないだろう、オレとしては。

「だって、せっかくのクリスマスなのに」

 そうだよ、そうだんだよ、久美子ぅ。

「いいってば。どうせクリスマスなんて、毎年来るんだから・・・」

 なにいってんだ、オレは。

「でもすげえな、ニューヨークだって? かっこいいじゃん。あれ だろ、ほら、なんてったっけ? そうだ、ロックフェラー! あの でっけえツリーとか見れるんだろ?」

「そう! 私、あれ見るの夢だったの!」

 虚勢をはったオレの言葉が効いたのか、やっと久美子は笑顔をみ せた。やっぱり笑っている方がいい。オレも安心していられる。 ほっとしたのか久美子の口調は滑らかになった。

「あと、自由の女神でしょ、エンパイヤステートビルに、セントラ ルパークに、マディソンスクェアガーデンに、あっ、ミュージカル も観てみたいし・・・」 

「ああ、おもしろそうだな」

「でしょ? ほら、一緒に映画で観たじゃない? なんだったっけ、 あれ・・・」

 こんな話をしている時の久美子はいい。瞳がきらきら光ってる。 気がついたらオレたちはすでにホテル街を通り抜け、道玄坂を下 っていた。

 ああ、ラブホテルが遠ざかっていく・・・。



          &



 久美子のニューヨーク旅行はイブの日に出発して、正月五日に帰っ てくる予定だった。ただの家族旅行なのよ、一クンの誕生日には絶対 間に合わせるからね、といわれたが、うーん、どこから出てくるんだろう、 そんな金。ただのサラリーマンだって? うそだろ、親父さん、絶対 なんか悪いことやってるよ。金バッヂでもつけてんじゃねえのか。 ああ、きっと強面なんだぜ。ヘタに久美子に手を出そうもんなら、 うちの娘を傷物にしやがってなんて・・・、いやもっとあれか、こう 和服かなんか着ちゃって、君が菊池君か、久美子とは節度ある交際 をしてくれているだろうね? は、はい、そりゃもう・・・。そうか、 くれぐれも頼んだよ、はっはっは・・・、なんていっても目が全然笑 ってなかったりなんかして。なにかあったらおまえなんか、簡単に 社会から抹殺してやるからな、って顔に書いてあったりして・・・。 ぶるっ、冗談じゃない。ダメだ、相手の父親のことなんか想像した ら気軽にHなんか出来るわけないじゃないか。うん、そうだ、久美子 とは節度ある交際をしなくちゃ。一時の情欲に流されちゃいけ ない。二人で愛を育んでいってしかるべきのちに・・・え?  ちょっと待てよ。それじゃなにか、オレはその時までヤラハタのまま なのか?

 えー、イヤだ、そんなの絶対にヤダァ!

 岡林はやってんだぞ、佐伯も木杉も、みんなみんなやってんぞ。いねえよ、 誰もいねえよ、童貞なんて。チクショウ、なんだってカノジョもいない ヤツが童貞じゃなくて、いるオレが童貞なんだ。そんなの不公平だ。 差別だ横暴だ不条理だ。だいたいさあ、オンナだってはじめての時は 相手は童貞じゃヤダなんて平気でいうもんなあ、って岡林ぃ、ほんとなの?  当たり前じゃねえか、考えてもみろよ、両方とも初めてだったら、 どこになにいれていいかわか んねえだろうが。う〜ん、確かにネ確かにネ、それになあ、オンナっ てヤツぁ結構身勝手だから、遊んでるひとはヤダっていうくせに、 童貞なんてもってヤダっていいやがるもんな。へ? そうなの? じゃ、 やっぱり久美子だって・・・。ああ、ダメだ、なんとかしな きゃ。誰でもいいからとっととやって、早くヤラハタにおさらばして、 久美子との時はちゃんとリードしてあげなきゃ。え えい、この際、久美子には拘らねえぞ、誰でもいい、誰かいねえか その辺に。一回だけでいいからさ、ちょこっと入れて出すだけだか ら。かんたんかんたん、ね、ちょっと、いない? ・・・・・・いるわけねえか。 いるわけねえよな、そんな都合のいいオンナ。遊びでいいからなんて・・・。 あ、そうだ、テレクラなんてどうかな? あんなとこ掛けてくるの なんて遊びだろ? こっちも遊びでいいんだから、そりゃ好都合って ものじゃないですかなんて・・・・・・・・・やめとこ。ロク なもんじゃないって、岡林がいってたもんな。そうだよアイツ、あれ ならソープのほうがよっぽどましだなんて・・・、う〜ん、ソープかあ・・・。 結局、それが出てきちゃうんだよな。そういえば佐伯のヤツ、ありゃ、 気持ちいいぞ、オトコとして生まれたからには一度は行かなきゃ、 とまで断言してやがった。そんなにいいのかな? そりゃ行ってみたい 気もしないではないけど・・・でもねえ、ソープで筆おろしなんて・・・・・・ う〜ん・・・・・・・・・ウ〜ン・・・・・・・・・UUUM,

 ええい、もういい! 決めた!!



          &



 思い立ったが吉日だ、オレは次の日にはもうソープにいった、と 言いたいところだが、そのまえに、オレにはやることがあった。アル バイト情報誌を買うことだ。

 なにせ泡に変えるような金銭的余裕などオレにはどこにもない。 うちの親はしっかりしたもので、高校出たらこづかいくらいは自分で 稼げとあったりいう。

 これについてはさすがにオレもあきらめていて、普段はちゃんと 居酒屋でバイトしているが、時給八百円で週三日の賃金なんて普通 に生活していれば、簡単になくなるものだ。あっちの相場はよく知らない が、どうせいくなら高くてもまともなところにしたい。なにせ、 オレは一生そのことを覚えているに違いないのだから。

 そのためならなんでもいいやとばかりに短期バイトの募集記事に片っ 端から電話してみたのだが、この年末だというのに、どこもかしこも、 もう決まりましたというばかりで、なんてこったとオレの気がなえて きたとき、

「あ、それじゃあさァ・・・」

 と、条件を言い出しそうな会社があり、オレは思わず身を乗り出した。

「なんでしょう? なんでもいってください!」

「ラブホテルでもいいかな?」

「はい! ・・・え?」

 思わぬところで行きたくてしょうがなかった場所の名を聞いて、ふと よく見てなかった募集記事を確認してみると、ビジネスホテルの清掃員 と書いてある。

「そっちなら、ひとり必要なんだけど、やっぱ、イヤかな? イヤだろうなぁ」

「い、いえ、いきたい、じゃない、やりたい、ちがぁ、や、やらせ てくださいぃぃ」

「そう? それじゃ、朝の9時から夕方5時まで、暮れの24日から 正月の4日まで毎日。それでもやる?」

 ・・・おとなって、きたない。

 まあ、いいか、久美子もいないことだし・・・あっ。

 その晩、久美子に電話しなければならなくなった。空港まで見送りに いけなくなったことを謝るためだ。オレが自分から言い出したこと だった。

「いいのよ、気にしないで。こっちも悪いと思ってたんだから」

 なんていい女なんだ。久美子は理由も聞かずにそういってくれた。 聞かれても正直にいえるわけがない。

「ごめんナ。出迎えには絶対いくからな。今度こそ約束する」

「うん、ありがと」

「楽しんでこいよ」

「うん・・・ごめんね、私ばっかり」

「バカ、いいんだよ・・・」

 そう、いいんだ。

 こっちにはこっちの楽しみがあるんだから・・・。



          &



 どういう因果なんだろう。バイト先は渋谷の円山町だった。朝か らこんな場所をうろつくのもなにかまぬけな気もするが、仕事であれ ば仕方ない。教えられた『KADAN』という看板はすぐに見つかった。

「いらっしゃいませ」

 自動扉が開くと、当たりまえのようにおばさんの声が聞こえてきた。 こんな朝からでも客が来るのだろうか? 薄暗いホールには電飾をつけた 客室案内板が目立つ。ほとんどの部屋に使用中のランプがついている。 左手にある小さな窓が受付らしい。目隠しがしてあって、中の人影は よく見えない。

「あの、バイトの者なんですけど」

「え? あら、困るわよ、こんなとこからはいってこられちゃ」

「すいません、よくわかんなくて」

「いいから、そこのドアから中はいって」

 窓口の左隣にある扉を開くと、いきなり蛍光灯の明かりが目に飛び込んで きた。薄目をひらくと、おばさんが立っていた。

「ちょっと、お兄さん、明日からは裏口からはいってきなさいよ。ほら、 こっちからじゃ、あんたも恥ずかしいでしょう?」

「はあ・・・」

 声からして、さっきの受付のおばさんだと思ったところに、今度は 床屋の店員のようなかっこうをした別のおばさんが現れた。

「あ、中込さん、この子、新しいバイトの子みたい」

 オレの頭をわしづかみにしながら、受付のおばさんがいった。どうでも いいが、この子はないだろ、この子は。そろそろハタチになる男つかまえ て・・・。

「あー、聞いてる聞いてる、ご苦労さまね。じゃ、こっち来て」

 床屋のおばさんに連れて行かれたのは客室清掃員の控え室だった。 6畳ほどの座敷のちゃぶ台で他のおばさんがふたりお茶を飲んでいた。 次から次へとおばさんばかりが現れる。

「こっちが沖田さんと松下さん。お兄ちゃん、名前は?」

「あ、菊池です。よ、よろしくお願いします」

「そう。まあ、メンバーこれだけだからさ、こっちことよろしく」

 中込さんが笑い飛ばしながらオレの背中をひっぱたき、沖田さんが 微笑み、松下さんが会釈した。中込さん以外は、とても品のよさそうな おばさんたちだった。



          &



 やっぱり床屋のような白いハッピを着せられて、二組にわかれて部屋を 掃除してまわることから仕事は始まった。

 あとでわかったことだが、部屋をきちんと掃除できるのは午前中のほんの ひととき、だいたい前夜一泊組がチェックアウトする10時からお昼の間に 限られる。

 この時間に掃除しておかないと、休憩の客がひっきりなしに訪れて、 空いてる部屋はほとんどなくなる。平日の昼間からラブホテルに来るヤツ なんてと思っていたら、これが意外にいるのだそうだ。

 ちなみにオレは中込さんとコンビを組まされた。なんかついてない。

 ホテルの中はロビーのある1階部分をのぞいて各階に3室づつ、合計12の 客室があり、それぞれにちゃんと名前がついていた。たとえば、オレが最初に 掃除した部屋は『ディズニーランド』だった。

 中込さんのあとに続いて、その部屋にはいったオレは、思わずその場で 立ち止まってしまった。

 オレが生まれてはじめてはいるラブホテルの一室。そこには白雪姫が 立っていた。

 片手をあげて天使のような微笑みを浮かべている。これが等身大なの だろうか。ずいぶん大きなつい立てだった。

 部屋のど真ん中には異常に大きな回転ベッドがあり、壁のなかでは ピーターパンやダンボが飛び回っている。枕もとには三頭身のこびと の人形が7体。その向こうにはシンデレラ城。天井では巨大なミッキー マウスがウィンクしてる。

 なるほど、確かにここはディズニーランドだ。ウォルト・ディズニーが 生きていたら是非みせてあげたい。しかし・・・、

「こんなとこ、はいるお客さん、いるんスかぁ?」

 オレの率直な質問に、中込さんはうんうんうなずきながら、答えてくれた。

「それがねえ、この部屋、けっこう人気あるのよ。いっつも、すぐ埋ま っちゃうんだから。やっぱ、若いヒトが多いみたいだけどねぇ」

 なんだってまた、そりゃ、面白い部屋だとは思うが、オレにはできない だろうな、そんな、ミッキーマウスに見られながらなんて・・・。でも、女 の子は喜ぶのかなぁ? ディズニーランド好きだもんな。え? もしかして、 ミッキーに抱かれてるつもりにでもなるのか・・・?

 中込さんが掃除機をかけたりシーツを取り替えたりしている間、オレは 風呂場を洗うようにいわれた。

 浴室はやけに広かった。浴槽は寝そべれそうだし、洗い場には小さな ピンポン台がはいりそうなくらいのスペースがある。なんだって、こんな に広いのだろう? え? もしかしたら、やっぱり、ここでもスるのか? うそ。マットとか、なんにもないぜ。タイルじゃイタイでしょうが、タイル じゃ・・・。

 側面にはデカイ鏡がついている。右と左でミッキーとミニーが見つめ 合っているその鏡にむかって、ミッキーの真似をして歯を剥き出しにして 笑ってみる。続いて、アッカンベー。そのあとウィンク。

 その鏡がマジック・ミラーになっていて、部屋の中で枕カバーをかけな がら、中込さんがげらげら笑い転げていたことはあとから聞いた。

 洗い終わった浴室の水滴は、客が使ったバスタオルで拭き取る。洗面台 なども使用済みのシーツでさっと拭く。その後タオルやシーツをまとめて ズタ袋にいれ、クリーニング業者にそのまま引き取ってもらうそうだ。

「使ったコップとかはね、水道でサッと洗って」

「はーい」

「あとはこれ、この枕カバーでいいから、これで拭き取って」

「はーい」

「それじゃ、そのコップをこの袋にいれて」

「はー、へ?」

 小さなナイロン袋には『消毒済み』の文字がはいっている。

「あ、あの、これ」

「なに、なんか文句ある?」

「い、いえ・・・」

「まあね、いいたいことはわかるけど、というか、わたしもはじめは そう思ったけどさ、お兄ちゃん、世の中そんなもんよ」

 そういって、中込さんはこともなげに世の真理を教えてくれた。 多少潔癖の気がある久美子に是非伝えて・・・あげない方がいいんだろうな。

 石鹸、歯磨きセット、クシ、その他の備品を補充して、掃除はひととり 終わりだった。備品は各階にリネン室という小さな倉庫があって、そこに 山と積まれていた。冷蔵庫の中身を調べていたオレは、中込さんがベッド の枕もとになにやらビニール製の封筒らしきものを置いているのに気がつ いた。

「なんスか、それ?」

「なにって、アンタ。やだよう。アレだよ、アレ。ほれ、こういうところ の必需品。あ、欲しいなら持ってきな。どうせ、いっぱいあるんだから、 ここには・・・」

 中込さんがオレに手渡してくれた半透明の封筒には、数枚のティッシュ とともに、小さな正方形の包みがはいっていた。内側に浮かび上がっている 円形を見て、やっと気がついた。最も簡単な避妊具だ。ビニール袋には 『夢』と印刷されていたが・・・。



 次にはいった部屋は『ポリネシア』といった。今度はどんなものかと 思ったら、茶色を基調にした色使いのなんの変哲もない部屋だった。

 ベッドも四角いし、ソファーもまともで落ち着いた雰囲気が漂って いる。『ディズニーランド』が特別だったのかと多少落胆しながら浴室に はいって驚いた。

 浴室中がツタをかたどった造花に覆われ、洗い場の真ん中になぜか トーテムポールが立っている。いったい、ここでなにをしろというのだろう。

 続いて『セントラルパーク』。こちらは緑を基調とした色になっていて、 なるほど確かに公園だと、今度はわくわくしながら浴室にむかったが、 期待に反してなんの工夫もない。黄緑色のタイルに覆われて、デカいマジ ックミラーもあるが、それだけだった。

 浴室の掃除を終えて、こっちはフツーなんですねぇ、とベッドメイクを している中込さんへいったところで気がついた。ベッドの中ほどに天井か ら吊り下げられたブランコが揺れていた。座面は透明のアクリル盤になって いて、真ん中に丸い穴が開いている。

「ここも人気があるんだけどね。こんなもん、どうすんのかねぇ」

 中込さんは笑いながら、さらにブランコを揺らしたが、オレにはその 利用法はなんとなく想像がついた。

 次のフロアに移動して、エレベータを降りたところで、どうやら帰る 途中だったらしい、若いカップルに出くわした。こういうものなのだろうか、 男の方はあらぬ方向を見てごまかしている様子なのに、女の方は妙に 堂々としている。

「やっぱり、こういうとこは今みたいな若いのが多いんでしょうねえ?」

 仕事を続けながら中込さんに聞いてみた。

 今度の部屋は『ブロードウェイ』といったが、壁一面がレビューショー の写真になっているくらいで他にとりたてて特徴はない。これじゃ、久美子 も見る気がしないだろう。どうも、このホテルのデザイナーには一貫性が ないような気がする。

「そうねぇ。でも、なかには中年のカップルなんかも見かけるよ」

「へぇ、不倫とかですかね?」

「それだけでもなくて、本当の夫婦も来るみたい。ほら、家だとなかなか できないヒトもいるでしょう?」

「はあ・・・、なるほど・・・」

「たいへんなんだよ、都会で暮らすっていうのも。あ、お兄ちゃん、 こっちのヒト?」

「ええまあ、川崎の方ですけど」

「あらそう。いいわね、自宅でしょ? そりゃいいわよ。私んとこ なんかアパートなんだけどさ、そりゃもう、アンタ、ハハハ・・・」

「ハハ・・・?」

 とりあえず、オレも笑っておいたが、まさかうちの親は来てねえ だろうな、と想像しかけて、あわてて振り払った。

 凱旋門とエッフェル塔の写真をべたべた貼った『シャンゼリゼ』の 掃除が終わったところで、午前中の仕事は終りだった。

「ああ、意外に早く片付いたわ、お兄ちゃん、なかなか筋がいいよ」

 こんなものに筋もなにもあるかとは思ったが、まあ、足手まといには ならないということだろう、オレは素直に礼をいった。

 正午までにはまだ時間があったが、もうお昼にしていいという。こう いうところは融通がきくらしい。おばさんたちは皆、弁当を持参して きていたから、外に食事にいくのはオレひとりだった。

 教えられた裏口から出たところで、今更ながらに自分がラブホテル街の ど真ん中にいることに気がつくと、急にそそくさした足取りになりながら、 オレは道玄坂をくだっていった。



          &



 午後の仕事は待つことから始まった。

 休憩時間が終わったからといって取り立ててすぐにやることはない。控え室の壁の高いところに小さな電光板があって、各部屋番号の下にパイロットランプが点灯する仕組みになっていた。

 このランプが緑なら清掃済みの空室、黄色なら使用中、赤なら清掃前の空室。 つまり、休憩客が来て緑のランプが黄色に変わり、やがて赤くならない限り、 オレたちの仕事はない。

 早めに食事から戻ってきたオレは、午前中確かにすべてが緑になっていた はずの電光板に、すでに黄色い光がふたつ灯っているのを見てあきれた。 まだ、一時にもなっていない。もしかしたら、会社の昼休みにかけつける 社内カップルなんていうのもいるんじゃないのだろうか。

「ね、驚くでしょう?」

 沖田さんがそういって、松下さんがやはり微笑みながら、お茶をいれて くれた。

「あ、すいません。しっかし、いるもんなんですねぇ」

「まあ、ほら、今日はサービスタイムなんていうのもあるから」

 にやにやしながら、中込さんがいった。

「なんですか、それ?」

「あら、お兄ちゃん、知らないの? へぇ〜」

 中込さんはさらにうれしそうな顔をする。

「平日はね、12時から4時までいても、休憩料金が変わらないのよ」

 沖田さんが説明してくれたところで、再び中込さん。

「お兄ちゃんたらあれねえ、なんか軽そうに見えるのに、けっこうまじめ なんだねえ。いや、お風呂場で見たときには、ずいぶんおもしろい子だと 思ったけど」

「い、いや、それは・・・」

 バツの悪い思いをしていると、沖田さんに松下さんまで加わって、3人 のおばさんたちが声をあげて笑い出す。どうもお昼の話題にされていた らしい。そのままオレは、おばさんたちの雑談にまきこまれていった。

 話の内容はともかく、その控え室の雰囲気はなんとも安らいだものだった。 これがラブホテルの一角だとは思えない。多少ついていけないものもあるが、 おばさんたちと話していると、同じ年頃のオンナの子といるより楽な気もする。

 なにせ相手はおばさんだ。一応女性とは認めるが、さすがに変なきづかいを しないで済む。きっとそれが、リラックスできる原因なのだろう。

 しかし、そうしてオレがほのぼのとしているあいだにも、例の電光掲示板 には黄色い光が増えていく。あの光の向こうでは、まだオレが預かり知らな い行為が行われているはずだ。

 チクショウ、あいつらヤってんだなあ。そう思うと、急に久美子の顔が 浮かんだ。もう今ごろは飛行機に乗り込んだだろうか。まさか、オレが こんなところにいるなんて思いもしないだろうな。

「あら、ひとつ消えたわね」

 中込さんの声で我にかえると、確かにひとつだけ赤いランプが光っていた。 これだけ黄色の光に囲まれていれば、嫌でも目につく。

「どうしようかな、2人で十分なんだけど」

「いいわよ、まだ他に空きはないんだし、みんなでいってさっとやり ましょ」

「そうね」

 中込さんと沖田さんの実に簡単な打合せにより、4人でたったいま空いた ばかりの部屋に出かけることになった。時計を見ればまだ2時前で、つまり、 それほどの短時間で客が出て行ったのは、例の『セントラルパーク』だった。

 しかし、あのブランコはお気にめさなかったのか、室内はきれいなもの だった。いや、それどころか、どこにも使った形跡がない。ベッドのシーツ はしわもなく、洗面台にもトイレにも、例の消毒済みがついたまま、浴室 にも水滴さえ残っていない。

「なにこれ?」

 さすがに中込さんたちも、口々にそういいながら室内を見渡していた。

「あら、これ」

 そういって、最初に沖田さんが発見した唯一の残留品は、ゴミ箱に 捨ててあったマクドナルドの包み紙だった。

「ハンバーガー食べるために寄ったのかしら」

「さあ?」

 全員みごとにシンクロして首をかしげる。にわか探偵にでもなった 気分だ。

「こういうお客さんもいるんスか?」

「さすがにこういうのは初めてだね、なに考えてんだろ、いったい」

「公園代わりに使ったのかしら?」

「セントラルパークって、いうくらいですからねぇ」

「・・・」

「まあ、とにかく、これじゃなんにもすることないわね」

 中込さんが2、3度ポンポンとベッドを叩いて、午後一番の仕事 は終わった。

「だけど、お兄ちゃん。勘違いしちゃいけないよ。こんなの本当に 珍しいことなんだから」

 中込さんはバイト初日のオレのためにならんと判断したのか、何度 もそういった。それはそうだろう。オレだって、こんな客ばかりでは、 ありがたいと思う前に気味が悪い。それにしても、ラブホテルにも いろいろな利用法があるものだ。

 次に赤いランプがついたのは、それから1時間ほどあとだった。 そろそろ他の部屋も空きはじめるだろうからという中込さんの判断で、 清掃にはオレと中込さんで向かった。

 今度の部屋はオレが午前中に見なかった『ピカデリーサーカス』と いうところで、どういうつもりなのか、壁の写真はロンドン橋から 見るイギリスの国会議事堂の眺めだったが、こっちの部屋にはちゃんと 使った形跡が残っていて、なぜだかホッとした。

 休憩後の清掃は午前中のように時間をかけるわけにはいかないそうで、 室内はシーツと枕カバーを取り替え、備品の補充をするだけ、浴室は ざっとお湯で流し、やはり使い古しのタオルで拭き取るだけで済ませた。

 もちろん、洗面台とトイレに『消毒済み』を付けるのは忘れない。 ほぼ10分程度で終わったが、中込さんにいわせれば、これでも ゆっくりやった方なのだそうだ。

「でも、結構きれいに使ってるもんなんですねぇ」

 これはオレの率直な感想だった。

「まあね、ラブホテルだからって、そうそうひどい使い方するひとも 少ないわよ。でも、たまにすごいのがあるから、覚悟はしときなさい よ」

 そういって中込さんはニヤリと笑った。十分ぞっとさせる笑顔 だった。

 それからバイトの時間が終わるまで、控え室であくびをしている暇 はなかった。電光板の黄色い光は次々と赤く輝き始めた。サービス タイムが終りに近づいたのだ。

 本番が終わって引き上げるカップルたち。こっちはこれからが本番 だった。やはり2組にわかれて片っ端から空き部屋の清掃にまわる。 新しく見る部屋の名前もいちいち気にしていられないくらい、それこそ あっという間に時間が流れていった。

 ひと通り掃除を終えて控え室に戻ると、中込さんが時計を見ながら オレにいった。

「あら、もう5時過ぎてるわ。ゴメンね、気がつかなくて」

 オレの方にも時間の感覚はなくなっていた。中込さんたちもパート だが、勤務時間は6時までだそうで、先にあがるのはオレだけだった。 まだバタバタと忙しいなか、ご苦労さまと見送られ、いくらか申し訳 ないような気になりながら、オレは裏口の扉を開けた。

 外はすっかり暗くなっていた。冬のつめたい空気がまともに頬に あたる。辺りにちらほらカップルの姿を見つけると更に寒さも募る。 両手をコートのポケットに深々と差し込んで、オレは家路を急いだ。 駅前の雑踏を見るまで、今日がクリスマスイブだということさえ 忘れていた。



          &



 家に帰り着くと、まさが我が子がラブホテルのバイトから戻って きたとはしらないおふくろから、あら、早いじゃないの、と嫌味を いわれ、いつもなら無視するところだが、

「どうせ、オヤジも遅いんだろ? せっかくのクリスマスイブだって いうのに、ひとりじゃかわいそうだと思ってよ」

 と、オレにしてはめずらしく殊勝なことをいってしまった。これも、 丸一日おばさんたちに囲まれていたおかげか、それとも、イブのせいか。 ちなみに3つ年上のオレの姉貴は去年結婚して、まだ出戻ってはいない。 こんなことをひとり息子からいわれて、喜ばない母親はいないだろう と思っていたら、そうでもなかった。

「あら、そりゃ悪かったね。わたしゃ、これから近所の奥さん方と カラオケ・パーティだよ。あ、お鍋におでんが残ってるからね。 それじゃ、あとよろしくねぇ」

 けたたましくそれだけ言い残すと、おふくろはいそいそと出かけて いった。ア然としつつ、おでんを温め直して食って、部屋に戻るり、 いつも付けっ放しにしているFEMのスイッチをいれると、いきなり 『きよしこの夜』が流れてきた。聖なるかはともかく、 確かに静かな夜だった。

 チクショウ、オレが中学生だったら、自殺してんぞ!

 寂しい・・・。ああ、今ごろ、久美子はロックフェラーのツリー観てるん だろうなあ、ん? まだ飛行機の中かな? 今日行ったばっかだもんな。えっと、時差ってどれくらい・・・ええい、そんなことどうでもいい! いってやる、 こうなったら、絶対、ソープにいってやる! あ、これ・・・。

 FEMの流す曲はいつのまにかスローなバラードに変わっていた。どこか 懐かしいメロディ。ああ、なんだったっけ、この曲。そうだ、確か久美子 とはじめてデートしたときもかかってた。

「ねえ、これ、知ってる?」

 あのとき、とぎれがきな会話のなかで、久美子がそういって宙を 指差してくれて、オレはすごく救われたような気がしたものだった。

「ああ、聴いたことある。なんだっけ、これ?」

「う〜ん、タイトルはよく知らないんだけどね、好きなんだ、私、これ」

「ああ、いい曲だよな、好きだよ、オレも・・・」

 あとはただ黙って見つめあっていれば、それでよかった。優しいメロディが 2人を包み込んでくれた。幸せだった。

 そのあと、なんとかしてこの曲のタイトルがわからないものかと、 ちょっとだけ調べてみたが、結局わからずじまいで、最近ではすっかり そのことも忘れていた。

 誰に聞いてみても、ああ、聴いたことあるとはいうものの、タイトルを いえる人間はいなかった。なんだか、やけに中途半端で、メジャーなんだか、 マイナーなんだかわからない曲だと思っていた。

 そうだ、ラジオだから、演奏が終わったら、曲のタイトルをいうかも しれない。よし、聞き逃さないようにしないと・・・、RRRRR!

 なんで、こういうときに限って、携帯が鳴るんだ。ったく、いまこっちは 忙し、RRR・・・、ああ、わかったわかった・・・。

「はーん、やっぱり、ちゃんと家にいた」

 相手は大木薫だった。なんでオレの番号を知ってんだ、このボケ。 おおかた部員名簿でも見たのだろう。

「なんだよ、いまこっちは忙し・・・」

「なーによ、邪険な声出しちゃって。久美子じゃなくてわるかったわねぇぇ」

「おまえ、酔ってんのか?」

 そういえば、周りもやけに騒がしい。どこかの飲み屋にでもいるのだろう。

「そうよ、酔ってるわよ。酔ってなきゃ電話なんて、わ、わるかったわねぇぇ」

「わかったわかったから、なに?」

「なによ、用がなきゃ、携帯しちゃいけないっていうの。いいわよ、 上等じゃない、用ならあるわよ、用なら、うふ、うふふ・・・」

 怒っていたかと思うと、急に笑い出した。これだから、酔っ払い はいけない。気がついたら、FEMはまただらだらわからん英語を しゃべっている。ああ、結局、あの曲のタイトルはわからなかった。

「聞いたわよ、うふっ、久美子ってば、はじめちゃんおいて、ひとりで ニューヨークだって? せっかくのイブだっていうのに、ねぇ、寂し がってんじゃないかと思っ」

「うるせえ、大きなお世話だ!」

 ついさっきまで、死ぬほど寂しい思いをしていたんだよ、どうも 携帯ありがとう、とは死んでもいえない。だいたい、いつからこいつに 『はじめちゃん』呼ばわりされるようになったんだ、オレは。

「ねえ、なにしてたのよ。案外ひとりでおでんでもつっついてたん じゃないのぉ」

 驚いた。なんてヤツだ。CIAでも雇ってるんじゃないのか。ええい、 こっちも驚かしてやる。

「ばーか。あのなあ、オレなんか今日、ラブホテル見学しちゃったんだぜえ」

 うそでもなんでもない。これは事実だ。

「え?」

 一瞬だけ声色が変わったが、すぐに薫はいつものからかい口調に戻った。

「へえ、アンタにもそんな度胸があったんだ。あーらら、いいのかなあ、 久美子は」

「いいんだよ、いや、実はな・・・」

 久美子の名前を出されたオレが、すぐに事情を説明しようとすると、 薫は携帯の向こうで誰かと話しているらしい。全然、こっちの話を聞いて いない。

「・・・かったって、すぐいく・・・、あ、ゴメン、私、いま忙しいから、 それじゃ」

「え? いや、ちょっとまてよ、おい!」

 すでに薫の声は発信音に変わっていた。

 うわっ、とんでもないヤツに、とんでもないこといっちまったんじゃ ねえのか?

 オレが焦りはじめたときには、もう遅かった。



          &



 次の日も中込さんとのコンビは変わらなかったが、なんでも午前中に 分担する部屋は気分転換も兼ねて交代にしているそうで、おかげでオレは また別の部屋をゆっくり見学することができた。

 前日にもうすうす気がついてはいたのだが、どうやらこのホテルを 担当したデザイナーの意図は世界旅行にあったらしい。新しく見たところ では、フィレンツェ、エーゲ海、ローマの休日、ベニスの商人、 ベルリンの壁、万里の長上・・・。場所の選択と命名の仕方にかなりのいい 加減さを感じたものの、オレはこのデザイナーに親しみをもった。楽しんで 仕事をしていたのだろう。

 ただ、奇抜なアイデアはあまり続かなかったらしい。ほとんどは室内の 色をそのイメージで統一し、壁に大写真を貼っただけのもので、例えば 『ローマの休日』は壁一面が、ただあの階段で、枕もとにオードリー・ ヘップバーンのパネル写真が飾られているだけだったし、『ベルリンの壁』 にいたっては、壁一面にベルリンの壁があるというわけのわからないもの になっていた。これをデザインしたときには、まさかあの壁がなくなるとは、 思わなかったのだろう。

 すべての部屋を見たなかで、オレが一番気にいったのは『エーゲ海』だった。 部屋中きれいな水色で、壁には青い海が広がっていた。

 その部屋にはいったとたん、思わず見惚れてしまったほどだ。浴室も鮮やか なマリンブルーだった。久美子に見せてあげたかった。いや、純粋な意味で ・・・。

 ただ、その日の午後、休憩後の『エーゲ海』にはいって驚かされた。 ベッドのシーツの上に血の海が広がっていたのである。巨大な日の丸だった。

「あらまあ、こんなにしちゃって・・・」

 そういいながらも中込さんは平然としていた。オレの方はオンナが初めて のときには血が出るものだと聞いてはいたが、こんなにすごいものなのかと 、ただただ感心していたのだが、中込さんの次のコメントはなにか違った。

「なにも、こんな日にまでしなくていいのにねぇ」

「え? あの、これってあの、はじめての時のじゃ・・・?」

「ん? あ、バカ。あの日に決まってんじゃない、やだよぉ、この子は」

「そ、そうなんですかぁ?」

 オレは思わず顔を赤らめてしまった。中込さんはいくらか真面目な口調 で続けた。

「あのね、はじめてのときだったら、出てもちょっとよ。小さな赤い染み ができるくらいだね。だいたい、出ない子だっているんだから。ちゃんと、 覚えておきなさいよ」

「は、はい!」

 まことにためになる講義だった。その血の色はしばらくオレの脳裏から 離れなかった。

 夜になって家に戻ると、放送研究会の名簿を出してきて、大木薫の電話 番号を探した。もちろん、前日の誤解を解くためだ。そのまま久美子に 伝えられた日には、えらく面倒なことになるに決まっている。

 しかし、やっと見つけた番号を回しても、呼出音が鳴り続けるばかり だった。何度かかけ直してみたが、同じだった。何なんだ、こいつんチは と住所を見てみると、どうも薫はひとり暮らしらしい。ええい、留守電 くらいつけとけ、と受話器を置いた。

 日付が変わりそうになる時間になって、今度は久美子から電話がはいった。

「え、ニューヨークからか?」

「そうよ、こっちはクリスマスになったばかりでね、すっごく寒いの」

 そういうわりに、久美子の声は弾んでいた。

「昨日の夜ついてね、すぐにロックフェラーのツリー観たの。きれい だったよぉ。でも、こっちのクリスマスは街がすごく静かでね」

 こっちも静かだったぞ、といいかけて止めた。

「なにいってんだ、こっちはもうクリスマスも終りだよ。なあ、 電話代、高いだろうが」

「うん、でもほら、どうしてもいっておきたかったから。あのね、 今年はゴメン! 来年のイブは一緒にいてね」

「え?」

「それだけだから、それじゃ」

 そういい残して、国際電話は切れた。時間にすれば30秒にも満たない ような短い会話だったが、オレはつくづく幸福感に包まれていた。

 次の瞬間、ふと不安になって、急いで薫の番号を回してみたが、やはり 繋がらない。どうやらこちらは日本の夜を満喫しているらしい。ふざけや がって。久美子が帰ってくるまえに、なんとか連絡つけなきゃ・・・。



          &



 3日目以降にはバイトにも慣れてきて、さすがにいちいち部屋のつくり に感心をもつこともなくなってきたのだが、日々なにかと大小のハプニング があり、なかなか飽きることがなかった。

「お兄さん、ちょっと悪いんだけど、お客さんのところへビール持って いってくれない?」

 なんてことをフロントのおばさんに頼まれることもあった。

 部屋の冷蔵庫に備え付けのビールだけでは飲み足りない客から、追加 注文がはいるらしい。別にオレとしては、客に顔を合わせることにも たいして抵抗は感じなかったし、むしろ客の顔がみてみたかったから、 すぐに引き受けたが、客の方はそうでもないらしい。

 なかには横柄はヤツもいたが、たいていの客は妙に緊張しながら、 オレにビール代を払った。この辺りが普通のホテルとは違うとこ ろだろう。基本的にここは、他人に顔を合わせたい場所ではないようだ。

 それでもやはり、何度か廊下で客とすれ違うことがあった。中込さん がいっていたとおり、中年のカップルもみた。なんとなく悲しい気分に なった。いかにもこういう場所に関係なさそうな、ごくごく普通の女の 子をみることもあった。なんとなく腹がたった。制服姿のままの高校生 らしいカップルをみることもあった。腹がたつ前にうらやましくなった。 どうみても中学生にしかみえないカップルにもあった。うらやましくなる 前にあきれた。

 暮れも迫るとサービスタイムがはずされて、そうなると午後はかなり 忙しくなってきた。ひっきりなしに黄色から赤へ変わる電光板を眺め ながら、やっぱり師走だ、なんてことも思ってみたが、こっちが忙しい ということは、それだけ世間には暇人が多いということだ。なかには こういう忙しいときにかぎって、『夢』の追加注文をしてくる客なんか いて、なに考えてんだ!と怒鳴りこみたくなりながら、それでも笑顔で 届けてやった。

 さすがに大晦日の午後にもなると、客足はいくらかとだえてきた。 やっと楽になったかと、それでも電光板に2,3個ともっている黄色い 光を見上げながら、おばさんたちとお茶を飲んでいた。

「これでしばらくのんびりできますねぇ」

「なにいってんの。明日からが本当に忙しいんでしょうが」

「え、そうなんスか?」

「そうよ、アンタ。参賀日なんて暇なひともっと増えるんだから、 そりゃもう、一日中てんてこまいよ。だいたい私たち日替わりで休む んだからさあ。お兄ちゃんにかかってんのよ」

 そうだった。実はオレのバイトはそのためのものでもあったのだ。 おばさんたちは参賀日を交代で休むことになっていた(一日しか休ま ないのはすごいと思うが・・・)。

 さらにどんなに正月の客が多いかと中込さんがオレを脅かしている ところに、沖田さんがのんびりつけくわえた。

「そうねえ、着物のお客さんなんかもいるし」

「あ、やっぱりいるんですか、そういうの?」

「まあ、だんだん少なくはなってきたけど、それでもまだひとりや ふたりは」

 沖田さんがやはりのんびりいったあとに中込さんがつづけた。

「初詣の帰りとかなんだろうけどねえ。あ、そうそう、去年なんてほら、 たいへんだったじゃない。着付けできなくなったって、泣き声でフロント に電話かかってきちゃって」

「ああ、あれ?」

「ほんと、沖田さんがやってくれて助かったわよお、あンときは。 あたしなんか、ちょっとできないからねぇ」

 オレがラブホテルの一室で破魔矢をもってあたふたしているカップルを 想像していると、中込さんがニヤリと笑った。

「沖田さんがいないときは、お兄ちゃんにやってもらおうか?」

「へ?」

「そうねえ、いいかもしれないわね。教えてあげるわよ」

 これまたのんびり沖田さんがつけくわえて、笑いながらオレをみる。 松下さんまで、相変わらずにこにこしたまま、オレの顔色をうかがって いる。

「ちょ、ちょっとぉ、カンベンしてくださいよぉ」

 おばさんたちに笑われながら、オレは内心、本当に教えてほしいもの だと願っていた。


 そろそろ年が明けようという時間になって、また久美子から電話が はいった。

「ねえ、そっちもう明けた?」

「いや、まだ・・・ん? あ、明けてる」

「わぁ、おめでとぉー」

「あ、ああ、おめでと」

「ねえねえ、すごいと思わない? そっちはもう来年なのに、こっちは まだ今年なんだよ」

「はあ? なんだそりゃ」

「私ね、今夜、絶対、タイムズ・スクエアでカウントダウンするんだ」

「そう・・・、あ、おまえ、変なヤツとキスなんかするんじゃねえぞ」

「アハッ、心配になった? 大丈夫よ。それじゃ、良いお年をね」

 電話が切れたあと、白人に囲まれてキスをせがまれている久美子を 想像したら、いてもたってもいられない気分になった。



          &



 中込さんがいったとおり、元旦のホテルは大盛況だった。電光板に緑の光 をみることは、その日中なかったような気がする。それでもお昼にはおばさん たちが持ってきたおせち料理をつつかせてもらって、つかの間の正月気分を 味わった。

 しかし、オレが本当に味わいたいと思っていた着物客はついに現れず、 それは二日も三日も同じだった。

「まあ、そういう時代になったってことかねえ。残念だったね、お兄ちゃん」

 中込さんに妙な慰めかたをされる始末だった。

          &



   3日の夜になって、ようやく薫と電話がつながった。

「え? 菊池くん?」

 相手がオレだとわかると、薫はすごく驚いた声をあげた。いままでどこを ほっつき歩いていたんだと思いながら、前回いったことの説明をちゃんと した。

「バイトぉ? なあにそれ」  そういったあと薫は急におかしくなったらしく、ひとしきりうれしそうに 笑っていた。オレの方はおかしくもなんともなかったが、とりあえず理解して もらえれば、それでいい。

「な、わかったろ。だから、久美子には・・・」

「でも、なんだってまた、そんなバイト始めちゃったのよ?」

 その理由はいえるわけがない。

「いやまあ、なにかと入り用があってだな、だから、とにかく、久美子には・・・」

「ねえねえ、でもさぁ、ああいうところの裏ってどうなってんの?」

「どうって、おまえ・・・、あのな・・・」

 たぶん、何度かそういう場所を利用したことがあるだろう薫でも、裏には 興味がわくらしい。ついでに、オレの方にも誰かにこういうことを話したい 気持ちは十二分にあったから、ついついいくつかのエピソードを話していた。

「・・・へえ、そうなってんだあ」

 オレの話にいちいち合いの手をはさみながら、薫はキャッキャッと笑い声 をあげていた。こっちの笑いはイヤな気がしない。それに受話器を通して 聞く薫の声は、けっして耳障りなものでもなかった。

 いくらかここちいい気分にもなって話しつづけていると、いつのまにか 一時間近く過ぎていることに気がついてあわてた。

「ま、そんなところだ。な、だから、くれぐれも久美子には・・・」

 オレがそういって切り上げようとすると、薫は急に声色を変えた。

「う〜ん、もっと聞かせてぇ〜」

 思わず、勃起しそうになる声だった、いや、してた。

「い、いいけどさ、また今度ってことで・・・」

「ねえ、菊池くん、初詣いった?」

「え? いや、まだ、だけど・・・」

「ホント! 私もなの。よかった、ねえ、それじゃ、明日あたりどう?」

「どうって、おまえ。オレ、バイト、明日までだし・・・」

「それ終わってからでいいよ。そうだ、明治神宮いこう!」

「いや、だけど・・・」

「いいの? 久美子にあることないこといっちゃうわよ」

「え? な、なんだ、おま・・・」

 結局、次の日に薫と待ち合わせするはめになってしまっていた。ああ、 明日は給料もらったその足で、すぐにソープにいこうと思っていたのに ・・・。



          &



「そっかあ、お兄ちゃん、今日で終わりなんだね」

 翌日の朝、控え室で中込さんにそういわれた。

「さびしくなるわねぇ」

 沖田さんがしみじみといい、松下さんもちいさくうなづいてくれた。

「どうも、なんか、あっというまでしたけど、ホント、お世話に なりまして」

「いいえ、こちらこそ。おかげでお正月も無事に迎えられたし」

 沖田さんがきちんとした挨拶をくれたあと、中込さんが元気のいい 声でいった。

「なんかやだねえ、こういうのは。ほら、まだ、今日一日残ってんだから、 最後までちゃんとやってよ、お兄ちゃん! ま、今日は仕事もゆっくり できるわよ。終わったら、お給料も待ってるしね」

 やはり中込さんがいったとおりだった。 参賀日を過ぎたホテルにはサービスタイムも復活し、昨日までの喧騒が うそのようなのんびりとした一日だった。

 今日で見納めかと思うと、掃除する手にも自然と力がはいる。ミッキー ・ミニーの鏡もトーテムポールもブランコも、きれいに磨いてやった。 担当した部屋割りに『エーゲ海』がはいってなかったのが、いささか心残り だった。

 午後になって、フロントからまたビールの配達を頼まれた。 いつも通りにドアをノックすると、いきなり顔を出した若い男から、 扉のなかに招かれた。

「ああ、ゴメン、ちょっと待ってて」

 普通、自分からドア閉めちゃうもんだけどなあと、のんきに思ったとたん、 ベッドに横たわる真っ白いオンナの裸が目に飛び込んできた。黒々とした ものまでがはっきりとみえた。

 なんとかビール瓶は落とさずに済んだが、ふいにオンナと目があった。 一瞬見つめ合ったあと、オンナはきゃ、と小さく叫んで、両手で顔を覆 ったが、こっちが注目している部分は違ったから、問題なかった。これが、 アタマカクシテシリカクサズだな、と意外に冷静な感想まで浮かんでいた。

 すぐにバスローブ姿の男が現れて、にやけた顔で代金をくれたから、 実際にはほんの数秒の出来事だったのだが、ドアを閉めたとたん、オレの まぶたには、たったいま見たばかりの光景がありありとよみがえってきて 、気がつくと痛いくらいに勃起していた。

 ああ、やっぱり、今日中にソープにいきたい!

 そう思うと、こんな日に約束させられた薫が急に憎らしくなった。

 オレの勤務時間が終りに近づいたころ、控え室にスーツ姿の若い男が 現れた。バイトの派遣元の社員だった。ご苦労さまといって男が手渡し てくれた袋のなかには、たぶんソープへ2,3回いけるだろうと思える 金額がはいっていた。

「それじゃ、元気でね」

「はい、みなさんも」

 おばさんたちに別れをつげて、裏口を出ようとしたところで、中込さん に呼び止められた。

「お兄ちゃん、ついでにこれも持ってきな。まあ、こんなもんで悪いけど さ。腐るもんじゃないし、ほら、これからお兄ちゃんが、絶対に必要に なるもんだから。くれぐれも、変な使い方するんじゃないよ」

 そういうと、中込さんはにっこり笑って、最後にウィンクまでした。 多少ぞっとしたが、悪くないウィンクだった。オレが受け取った袋のなか には『夢』の束がはいっていた。



          &



 薫が待ち合わせ場所に指定した明治神宮の入り口付近は、すでに人影も まばらだった。それなのに、石門の前に見えた人影がすぐに薫だとわから なかったのは、いつもと全然違う地味な服装のせいだろう。オレに気がつ くと薫が微笑みながら、近づいてきた。

「残念ね、もう参拝終りなんだって。あれ、どうかした?」

「いや、なんか、いつもと違うから・・・」

「へん?」

「い、いや、いいんじゃねえか」

 それはあながちお世辞というわけでもなかった。薫はうれしそうに 微笑んだ。金髪に染めていた髪も、多少落ち着いた茶色に変わっている。 白いセーターに巻きスカートなんて、まるで・・・、

「久美子みたいでしょ?」

 確かに久美子が好みそうな服装だった。なに考えてんだ、こいつは?

「しようがないから、飲みにでもいこっ」

 そういうと薫は、いきなりオレの腕をとって歩き出した。

「ちょ、ちょっと待てよ」

「いいからいいから。それで、バイト代はなんに使うのかしら? どうせ、 久美子になんか買ってやるんでしょ。相談に乗ってやるわよ」

「あ、いや、それは・・・」



 居酒屋のカウンター席にふたりで並んで落ち着いたあとも、まだオレ はいつもの調子がつかめないままだった。

「やっぱ、なんかおかしいよ、おまえ」

「なにが?」

「だって、いつもはもっと、こう・・・」

「遊んでるみたいなのに?」

「いや、ていうか」

「いいわよ、別に。ホントにそうなんだから」

「え、そうなの?」

「いいから、ほら、飲みなさいよ。ね、こうやってふたりだけで 飲むことなんて、滅多にないことなんだから・・・」

 薫に勧められるままに酒を飲み、問われるままにラブホテルの話を した。はじめのうちは居心地の悪さも手伝って、しかし、酒場で関係 ないオンナにする話かね、と冷静な判断もしていたのだが、酒と話が 進むにしたがって、そんなことも感じなくなっていた。

「だいたい、おまえなんかほら、あっちこっちいったことあんだろう けどさ、そんでもおまえ、風呂場にトーテムポールあるとこなんて、 見たことあっかあ?」

「ふふっ、ないない」

「だろ? すっげえんだから。ちゃんとオレが磨いてきてやったからよ、 いまごろあれだ、カップルがその周りをぐるぐるまわってんナ」

「アハッ」

「あ、でもいっかい、ワシントンパークでな・・・」

 だいたいこんな調子で、ほとんどはオレばかりがしゃべっていて、 いつのまにか部屋の名前さえめちゃくちゃになる有様だったが、い つもなら適当にちゃちゃをいれそうなところでも、薫はおとなしく 聞き役に徹していた。

 かなり酒が進み、オレがとうとうと『エーゲ海』の美しさを語り 終えたころ、とうとつに薫がつぶやいた。

「私もみてみたいな」

「ああ、いいと思うよ、あそこは」

「行ってみたい」

「うん」

「ねえ」

「うん?」

「連れていってくれない?」

「ん」

 いくら酒がはいっていたとはいえ、さすがにオレは薫の顔を見つめ 直した。頬にほんのり赤みがさした、それはそれは艶っぽい横顔が そこにあった。さらに薫の甘い声が聞こえてた。

「ねえ、だめ?」

「だめって、おまえ・・・」

 そのとき、オレの脳裏に浮かんだのは久美子の顔だった、といいたい ところだが、悲しいことに昼間見たオンナの裸だった。とりわけ、あの黒々 とした部分が目に浮かんだ。

 オンナが顔を隠した両手をどけると、そこに薫の顔があった。改めて よくみてみると、黙ってオレを見つめている薫の瞳には、いつもの嘲笑が 感じられない。それでもどこかでからかわれているという気持ちがいくら か残っていたのだろう、気がつくと、オレは薫を試すように、こういって いた。

「いまからいくか?」

 真面目な顔をして、薫はこくりとうなづいた。


          &


 それからの記憶はかなりあいまいになっている。確か外に出た寒さで 酔いはすぐにさめたはずなのに、それでも少しも現実感がなかった。

 一緒に歩いているあいだ、ふたりとも黙っていたような気もするし、 逆に全然関係ない話をべらべらしゃべっていたような気もする。かなり 長い道のりだったはずなのに、そんなことさえ感じなかった。

 その間オレは、やっと『デキる』と考えていたような気もするし、 うまくできなかったらどうしようと考えていたような気もする。

 『KADAN』の前に着いて、夜は初めてだと思ったことも、ロビーの パネルを見て、あ、空いてる、と思ったことも、受付に頼むときに多少 声色を変えたことも、ひとつひとつはなんとなく覚えているのだが、気が つけば青い海を見ていた。そんな感じだった。

 シャワーを使う音が聴こえる。いつのまにいったんだろう。やっぱり 薫は慣れてるな、と思った。

 薫にとって、オレは何人目の男になるんだろう。オレにとっては初めて なんて、薫は思ってもみないだろうな。アイツも遊びのつもりなんだ、 オレもそう思えばいいんだ。そんなことを何度も自分に言い聞かせていた。

 シャワーの音が消えた。代わりに自分の心臓の音が聴こえてきた。

 情けない。ばれちゃうぞ。ほら、海は青い・・・部屋に戻ってきたな。 どうしよう? あれ、そのままベッドにはいっちゃうの? じゃあ、 オレは・・・あ、シャワー浴びなきゃ・・・。

 薫と目を合わせないようにして、浴室に向かった。熱いお湯は心地 よかった。これは本当に現実なのか。夢みてるみたいだな。夢なら、 いい夢なのか悪い夢なのか・・・あ、ここ洗っとかないと・・・。

 浴室から出ると、部屋の明かりが薄暗くなっていた。こういうもの なのかと思った。どうやってベッドまでいくんだ? ここは隠してっ と・・・なんだかなあ、温泉いくんじゃないんだから・・・あれ? 顔だけ 出して、天井見つめてるよ。やっぱ、冷静だな。落ち着け、落ち着け ・・・とりあえず、キスか・・・。

 ゆっくり唇を合わせると、熱く柔らかな舌が絡みついてきた。唇を 離すと、甘い吐息が漏れる。よし、毛布をめくって・・・う、うわぁ・・・。

 ・・・ど、どうしよう、そうだ、前技だ、あれは大切らしい。ど、どう すればいいんだ? これで、いいのか? しっかし、柔らかいよなあ。 この声は喜んでんのか? にゅる? うわっ、ホントだ、濡れてる、 すげぇ・・・・・・こ、こんなんで、いいの? い、いいんだよね、気持ち、 いいのか? お、おお・・・・・・。

 ・・・もうそろそろ、いいんじゃないのかなあ? なんにもしてないの に、痛いくらいだよ、オレの。よ、よし、いくぞ。ここで、いいんだよ な・・・こ、ここ、そ、そうだよ、これが、ゆめ、だった・・・・・・ん!

「あ!」

「え?」

 悩ましげに歪んでいた薫の表情が一転きょとんとした。オレは、たった いま見つけたものを手にとって、薫にみせた。

「これ、忘れてた」

「ああ・・・」

 実際、危ないところだった。枕もとに『夢』がなければ、オレはそのまま 突入していただろう。避妊って、冷静じゃないと出来ないのな、とつくづく 実感させられた。

 『夢』の包みを破り、おぼつかない手つきで、これでいいのかとごそごそ やっていると、薫が心配そうに見つめていた。

「ゴメンな、なんか、しらけるよな」

「ううん、私も、気がつかなかったから」

 そういうと薫は優しく笑ってくれた。こいつ、本当はすっごくいい 女だったんじゃないのか? オレは改めてそう思った。でも、これじゃ、 自分から初めてですと白状したようなものだな、と思うと、それまで 元気だったものが急に萎えてきて、手元の作業がむづかしくなってきた。

「だいじょうぶ?」

「あ、ああ、なんとか・・・」

「そう・・・、じゃあ、きて、おねがい・・・」

 すごいもんだ。たったひとことで、再び血が逆流した。よし、これなら いける。そう思ったとたん、もはや躊躇することもなく、オレは薫に 向かった。

 うわっ、キツっ。え? 痛いんじゃないのか、おまえ・・・? こんなっ、 あ・・・あったかい・・・こんなにあったかいものなんだ、オンナって・・・。 う、うごかすんだよな。これでいいのかな? お、おおお、どんどん、 声が高くなってく・・・う、うう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ。


          &


 薫の温もりから離れたあと、オレはしばらく天井を眺めていた。 こんなものか、と思った。想像していたほどに感動するものでもない。 薫になにか話しかけようと思ったが、なにを言えばいいのかわからな かった。

 しばらくすると、薫がゆっくり起き出して、静に浴室にむかった。 薄暗闇のなかに浮かんだ薫の白い背中は、なにか不思議なものに見えた。

 シャワーの流れる音をぼんやり聴いていたが、ずいぶん長いと感じる と、枕もとにあるパネルのことを思い出し、有線放送のスイッチをいれ た。

 静かなバラードが流れてきた。どこか懐かしいメロディ。あの曲だった。 それがわかったとたん、オレは思わず飛び起きた。

「どうかした?」

 そのシルエットは久美子にみえた。

「ごめん・・・」

「え?」

 戻ってきたのは、薫の声だった。

「いや・・・。なあ、この唄、知ってるか?」

 しばらく耳を傾けたあと、薫はつぶやいた。

「うんん、知らない」


 オレが浴室から出てくると、部屋は明るくなっていた。身じたくを 終えた薫がソファにうつむいて座っていた。ベッドには丁寧にカバー までかけられていた。

 妙な気まずさに、オレも急いで服を着ようとジーンズに脚を通した とき、床のうえに小さな赤い染みを見つけた。真新しい血痕だった。 あわててベッドにかけもどり、急いでカバーをめくってみると、 予想通り、そこにも赤い染みが残っていた。

「おまえ・・・」

 思わず薫に目をむけると、薫はすぐに目を伏せた。それをみて、 オレはあとに続ける言葉を飲み込んだ。


          &


   一緒にホテルを出たあとも、オレたちはお互いに押し黙ったまま だった。道玄坂までさしかかったとき、少しまえを歩いていた薫が 急に立ち止まり、振り返りながらいった。

「大丈夫よ、久美子には絶対にいわないから」

 薫は微笑んでみせたようだったが、オレにはどうしても、その顔が 笑顔にはみえなかった。

「それから、1日早いけど、お誕生日おめでとう」

「え?」

「それじゃ」

 それだけ言い残すと、薫は早足で坂道を下っていった。

 その後姿を追いかけることもできず、ただ黙って見送ったオレは、 そのときになってはじめて、薫はずっと帰省していたのかもしれな いという、当たりまえのことに気がついた。


           &


 自分の部屋に落ち着くと、急に疲れを感じた。コートのポケットに はいっていた給料袋と、中込さんにもらった袋をテーブルのうえに 投げ出した。どちらもいまとなっては見たくもないものに変わって いた。

 そのままベッドに寝転んで、しばらく天井を眺めていると、様々な 薫の顔が浮かんできた。どんなに振り払おうとしても無駄だった。 久美子の顔を思い出そうとすると、それはすぐに薫の顔に重なった。

 携帯が鳴り響く音に気がついてもすぐには取れなかった。それが、 久美子からのものだということが、先にわかっていたような気が する。

「ごめん、まだ起きてた?」

「・・・うん」

 喉元から絞り出すようにして声を出した。うまく自分の声が出ている か不安になった。

「いま、ケネディ空港なの。こっち大雪でね。2時間くらい飛行機が 遅れるんだって」

 なにかすごく遠い世界の話を聞いているような気がした。明るい 久美子の声をわずらわしく感じたのは、これがはじめてだった。

「だから、そっちに着くのも遅くなりそうなんだけど」

 迎えにいく約束をしたことは、もちろん覚えていた。しかし、とても 行く気にはなれなかった。

「ねえ、聞こえてる?」

「うん。あの、そのことなんだけど・・・」

 その先をどういえばいいのか言いよどんでいるうちに、つかの間の空白 ができた。国際電話でもそれは伝わったらしい。先に言葉をつないだのは 久美子の方だった。

「あ、いいのよ、都合つかいないなら、気にしないで」

 久美子が無理に明るい声を出していることはすぐにわかった。 それなのに、オレは急にそんな久美子が疎ましくなった。

「いいのか?」

「うん、気にしないで。だってほら、もっと飛行機遅れるかもしれないし、 ね、ちゃんと帰ったら、連絡するから」

「いいわけないだろ」

「え?」

「いいわけないだろ! オレ、約束破るんだぞ、おまえのこと裏切る んだぞ、どうして責めないんだ、どうして責めてくれないんだ!」

「どうしたの? なにかあった? ね、ねえ、いまあれだから、 そっち帰ってから・・・」

 久美子の声はそのまま発信音に変わっていた。受話器を置いたあと、 強烈な自己嫌悪がやってきた。


          &


 目覚めたときには、もう夕方だった。丸一日近く寝ていたのか。いや、 眠りにつくまえはもう明け方だったかな。携帯・・・まずい!

 コートを持って外にでた。手にはしっかり給料袋をもっていた。 どこへいけばいいんだ! 酒屋の前にでた。なんで飲み屋じゃないん だ! それでも躊躇はしなかった。大量に酒を買った。金はいくらでも あった。全部、酒に変えたいくらいだった。とにかく、酒の力が必要 だった。

 大きな袋を2つ抱えて表にでた。どこで飲もうかと迷うと、あまりの 寒さに気がなえた。急に腹がたった。ええい、部屋で飲んでやる。 飲んで久美子と対峙してやる。いいたいことはこっちにもあるんだ。

 部屋に戻るとまた気がなえた。すぐに酒を飲んだ。うまくもなんとも ない。それでも飲みつづけた。もう、とっくに久美子は帰ってきている はずだ。いつ携帯が鳴ってもおかしくない。

 更に酒がすすんだ。静かなことに気がつくとFENを鳴らした。 いつでも来い。覚悟を決めたとたん、なにをいえばいいのか全然わかって いないことに気がついた。

 薫とわかれてからずっと、そのことだけを考えていたのに、なんの 結論もでていない。いったい、どうすればいいんだ。

 更に酒がすすんだ。まだかかってこない。いまのうちになんとか。 どうする。酒はどんどんすすむ。いくらでもある。まだ来ない。この まま来ないのかもしれない。ずっと来ないのかもしれない。そう思うと 急に怖くなってきた。どうするんだ。酒だ。来ない。どうする。酒。 来ない。どうする。・・・。

 いつのまにか眠っていた。夢の中に久美子が現れた。雪が降っていた。

 ああ、空港なんだ。それじゃ、まだ・・・。

 久美子は黙っていた。傍らに薫がいた。薫も黙っていた。黙った ままなのに、声が聴こえた。

「久美子にはいわないっていったじゃない」

 なにかいいかけたが、言葉がでなかった。今度は久美子の声が 聴こえる。

「なにがあったの? 話して」

 優しい声だった。オレのことをわかっていてくれる声だ。

「オレ、薫と寝たんだ」

 思わず答えていた。薫がうつむいた。久美子は薫を見ていた。 長い間、ずっと薫を見ていた。薫のことを見つめていた。 そして聞いた。

「薫のことが好きなの?」

 冷たい声だった。考えた。真剣に考えた。

「わからない」

 本当にわからなかった。

「誰でもよかったの?」

「うん」

 すぐに答えることができた。ひどい答えだった。

 薫が消えた。久美子の姿も霞んでいく。ひきとめたいのに、声がでない。

 消えないでくれ。

 長い沈黙のあと、久美子の声が静かに聴こえてきた。

「わたし・・・、赤ちゃん、堕ろしたことがあるの」

 なんてめちゃくちゃな夢だ。

「高校のとき、両親が離婚してね、しばらく遊び歩いたことがあって。 バカよね、自分でもわかっていたのに、ナンパされた男のひとと・・・ 何度かあったわ、そういうこと。いいと思ってた。別に守る つもりもなかったし。誰でもよかったの。でも・・・。男のひとって、 得よね。あのとき、そう思った。悔しいくらい・・・」

 オレはなにも言えないまま、久美子の話は続いていく。

「ニューヨークへいったのは、父に会うためだったの。あのころ、 本当に迷惑かけたから・・・。やっと謝れた。やっと素直になること ができた。うれしかった。大好きだったのに。本当は昔からずっと、 大好きだったのに。それなのに、いままで・・・」

 久美子の姿はもう見えない。その声もどんどん小さくなっていく。

「もう、誰も好きになれないと思ってた、ずっと・・・、あなたに会う までずっと・・・、あなたの気持ちもわかっていたけど・・・、だけど・・・」

 オレはまだ声が出せない。なにか言わなくてはいけないはずなのに。 だめだ、いまなにか言わなくては。とにかく、いま。

 ああ、久美子の声まで消えていく。静かなバラードに変わっていく。 懐かしいメロディ。ああ、また、あの唄だ。なんなんだ、この唄は。 思い出せない。だめだ、思い出さなければ、いま、思い出さないと・・・。

「なあ、この唄・・・」

 やっと、声が出た。

「え?」

 よかった、久美子だ。まだ、そこにいる。

「聴こえないか? この唄」

「なに?」

 どうしてだ、どうして聴こえないんだ、この唄が・・・。

 そうか、携帯だと・・・え?

「待って、ああ、少しだけ聴こえる。なに、ラジオ?」

「う、うん・・・」

 腕を伸ばして、FENのボリュームをあげた。

 いったい、どこからが現実だったのだろう。

 それともこれはまだ、夢の続きなのか・・・。

「うん、聴こえる。ああ、これ・・・」

「憶えてるか?」

「うん・・・」

「オレ、この唄聴くと、いつもあの日のこと想い出して、いつも、 いつでも、いつまでも、おまえとずっと、この唄を聴いていたい のに、なんて唄だかわからなくて・・・」

「・・・私もよ。・・・ねえ、聴こえる?」

「え? ・・・あ」

 携帯の向こうから、オルゴールの音が流れてきた。それは、 間違いなく、この唄と同じメロディだった。

「これね、ニューヨークで見つけたの。私からのバースディ・ プレゼント。・・・これで、いつでも一緒に聴けるでしょ?」

「うん・・・」

 思わず涙がこぼれそうになったとき、FENのアナウンスが 流れていった。

 It's only Love Song, title is ---

- END -

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