My favorite sentence
〜 あっちゃこっちゃの名文集 〜




 失業したとたんにツキがまわってきた。

 というのは、あるいは正確な言い方ではないかもしれぬが、それはそれでかまわない。第一、なにも正確に物語ることがぼくの目的ではないし、第二、たぶんこちらの方が重要なのだが、ぼくは並み外れて縁起をかつぐ人間である。これはたとえば、机の上の鉛筆がひとりでに転がって床に落ちたとして、そのとき机の傾斜を調べるより先に鉛筆の芯が折れたことの方を重く見る。重く見たがる。そんな性格なのだ。だから、一年の終わりに会社を辞めて翌年の頭からつきはじめた・・・・・・ことをいま思い返すと、何かちょっと因縁めいた文句でもつぶやきたくなる。まるで職を失った瞬間に背中で幸運が微笑んでいたかのように。まるで職を失うことと幸運との間に因果関係でもあったみたいに。もう一度つぶやこう。

 失業したとたんにツキがまわってきた。


『永遠の1/2』佐藤正午




「じゃあ訊くけど、五十回もファックした女とそのうえ結婚したいと思うか?」

「おれは思わない」

「だれが思うんだ」

「そりゃすくなくても五十回のファックを……ちょっと待て、するとおまえは一晩に一回しかやらなかったんだな?」

「いや、二回のときも……」

「三回は」

「それはちょっと」

「無理か。でもそうすると五十回じゃきかないな。すくなくとも八十回くらいにはなる」

「無理なもんか、おれはただ……八十回ならなおさらだろ?」

「三十回ならどうだ?」

「それなら、まあ、考えても……」

「三十回で手を打つ男が五十回だと二の足を踏むのか」

「二十回の差は大きいからな」

「ほんの三ヶ月の違いじゃないか」

「百日。つき合ってみろ、長いぞ。永遠の半分だ」

「結婚してみろ。短くなるぞ。永遠のひとしずくくらいには」


『永遠の1/2』佐藤正午




 第九レースの発売をまもなく締切ると無愛想な女のアナウンサーが告げた。まるで駅のプラットホームみたいにあわただしくベルが鳴りだす。はやく切符を買わぬと列車に乗り遅れる。はやく決心をつけぬと幸運をつかみそこなう。ぼくは立ち上がった。暖房がききすぎている。ジャンパーの内ポケットには聖徳太子の大きい方が一枚しか残っていない。このレースに五千円、次の最終レースに五千円……九回目と十回目の肩を落としている自分の姿が見えるような気がする。ぼくはかぶりを振った。発売所の人ごみを抜けて“お茶コーヒー接待所”のカウンターへ行き、もう何杯目かのブラックを飲むことにした。

 二人いる係の若い方の女がこんども紙コップに注いでくれた。今日はまだ一言も口をきいていなかった。やけに脚の長い女で、後姿はなんど見ても飽きないのだが、鼻の両脇にソバカスが目立つのと、あずき色の縁の眼鏡をかけているのがどうしても気になる。ぼくは両眼でウィンクするようなつもりの瞬きを一回、それから溜息を一つして、挨拶代りに、

「きょうかぎり競輪はやめるよ」

 とつぶやいてみたが、女は笑わなかった。唇が心なしかすぼまり、あとは、眼鏡の奥で戸惑ったような瞬きが数回くりかえされる。カウンターを隔てて接待する女にしては、愛想笑いが苦手なようなのだ。ほくは仕方なく、独り笑いを浮かべてコーヒーを一口飲んでから、先週も一度焼いた大きなお世話を思い出して、

「コンタクト・レンズを入れた顔が見たいな」

 と、これは鳩にポップコーンを投げるような、退屈しのぎの軽口をたたいた。先週は相手にせずただ微笑んでくれたものである。ところが、女はまるでこの瞬間を待ち兼ねていたような仕草で、いきなり首をひねったかと思うと、手のひらで柄を包みこむように持って眼鏡をはずし、折り畳んでエプロンのポケットに辷らせ、ふたたび首をひねり気味に、破顔一笑、といった感じで僕を見返して、

「コンタクトをしなくても見えるの」

 と言う。


『永遠の1/2』佐藤正午




    四月


 昔はこれといって必要なものはなかった。昔とは半ズボンを穿いて駆けまわっていた頃を指すので、強いてあげれば歯医者と母親くらいである。他にもいくつかあったのかもしれないが、思い出せないところをみるとこの二つほど欠かせぬ物はなかったのだろう。

 それがいつの間にか、というかつまり虫歯が失くなり、深爪の痛みを忘れていくうちに、気がついたらウィスキーやタバコやコーヒーなしには夜も日も明けない暮しが身についている。運転免許証と眼鏡がなければ職にもありつけないし、プロ野球と競輪と映画と推理小説のない生活は考えられない。その他にも剃刀は絶対必要だし、できればシェイビング・クリームとアフター・シェーブ・ローションも使いたい。それから歯ブラシに歯みがきに楊枝に灰皿にライター。まだある。手帖、ボール・ペン、腕時計、目覚まし時計、ラジオ、テレビ、新聞、スポーツ新聞、週刊ベースボール、スーツ、ネクタイ、革靴、靴べら、靴みがき、靴下、ヘア・ブラシ、ヘア・トニック、鏡、ティッシュ・ペイパー、ハンカチ、予備のライター、マッチ、目薬、風邪薬、胃腸薬、頭痛薬、気強さ、優しさ、タイミング、コンドーム……。あんまり多いので、ときには勘違いして要らぬ物まで買いこみ、後で悔むことになる。その最たるものがステレオ装置だ。


『永遠の1/2』佐藤正午




 また働き始めれば、競輪場へ来る機会は少なくなるし、だいたい職にも就かずにブラブラしているから人違いをされたり、それを大げさに気に病んだりするわけで。

 働き始めれば、良子みたいな面倒臭い女とつき合ってる暇もなくなるだろうし、もし彼女がレコードを取りに来ても(来ないかもしれぬが)、ぼくは留守ということもあるだろうし。

 働き始めれば、口うるさい上司がいて、仕事以外は趣味のない上役が必ず一人いて、怒鳴られる男はいつも決まっている。それはもちろんぼくではなく、もっと要領の悪い男だろう。それからぼくより要領のいい男がいて、麻雀がめっぽう強くて、金を借りて金を貸して、恋人を紹介されて、一緒に飲みに行って、失恋話を聞かされるだろう。司馬遷太郎の小説しか読まない男もいるだろうし、外国の車のことばかり喋る男もいるだろうし、釣りの話に目がない男もいるだろうし、一ぺんくらいなら聞いてやってもいい。高校野球に熱狂する女事務員がいて、ときどき妙に色っぽい眼でぼくを見て、夕食を誘うと煮えきらない返事をする。朝は社長みずからの訓示を聞かされて、もう慣れたかと訊かれてはいと答えて、月曜日は配達の途中で優勝レースの前売券を買って。来年の四月になれば、高卒の女の子がふたり入社してきて、二人とも処女か二人とも処女でないかと噂しあって、一人は仕事のミスでさっそく課長に叱られて、陰でなぐさめてやった男と歩いているところを誰かが見つけて、忘年会で悪酔いする男がきっといて、誰も聞いてないのにカラオケで歌いまくる男もいて、そろそろ帰る頃になると、なぜ歌わなかったかとぼくに詰め寄る……

 そんなことまで想像しているうちに重苦しい気分になり、ぼくはやっと腰をあげて、人気のないスタンドを降り、出口にむかった。むかいながら、これが本当だろうと観念していた。いままでができすぎ・・・・だったのだ。


『永遠の1/2』佐藤正午




「かわいいじゃないか。ほおずきの一輪挿し」

「おれはそうは思わん」

「どっちにしたって些細なことだよ。ほおずきの鳴らし方よりうまい料理を作るほうがずっと大事だと思う」

「その些細なことを大切に、億劫がらずに、こなしていくのがぼくらの人生ではないだろうか」

「おまえの人生だろう。おれのじゃない。教師の人生観だ」

「……」

 ウィスキーを飲むのに調子のいい日と悪い日があったが、この夜は悪くなりそうだった。にがい水はどこまでいってもにがい水でしかない。ぼくは酒瓶に手を伸した。胴体に黒のマジックで二十勝”と殴り書きしてあるボトルからたっぷり注いだ。伊藤はhalf an eternity”と書いてある瓶を開けながら言った。

「生徒の作文なんだ。赤点とった子に宿題を出したらそんなことを書いてきた。夜中に思わず唸ったんだが」

「老けてるよ」

「バイクで通学してるんだぜ」

「おれの会社の営業主任はナナハンで通勤してた」


『永遠の1/2』佐藤正午




「田村さん、いまでも映画はよく見ますか」

「見る」

「『スター・ウォーズ』の二作目は?」

「見た。あんまり感心しなかったけど」

 というぼくの意見を、十年まえ野球部の他にたしかアメリカ映画研究会にも所属していたはずの男はあっさり無視して、

「実はこないだ……」

 と何か言いかけたのだが、ちょうどそこへ新しいビールが運ばれてきた。ぼくは一口ゆっくり飲んでから、話すきっかけを失って顎の先を指でつまんでいる男に訊ねた。

「シナリオは書けたのかい?『真夜中のカーボーイ』みたいな」

 すると山田は、まるで子供の頃流行った謎々でも考えるような表情になり、ちょっとの間ぼくを見返し、それからその答を思いついたように笑って、

「よく覚えてますねえ」

 と驚いてみせる。ぼくは記憶力の良さを自慢し、山田は、ただし自分は『真夜中のカーボーイ』ではなく『ジョンとメリー』みたいなシナリオを書きたいと言ったはずだと訂正した。


『永遠の1/2』佐藤正午




 西海市青柳町33−21というのが女の住所だった。

 黒塗りの大型車をターンテーブルからほんの七八メートル前進させ、駐車塔の吊り籠のなかへおさめたところで男は思い出した。しかしそれは瞬間に閃いたという感じではなく、まるで、ゆるやかな水紋が徐々に伝って岸でさざ波をたてるのに気づくような思い出し方である。男は気の抜けた吐息を一つつき、これで解決したと思う。この三日ほど悩まされていたものから解放された。これで気にかかることは何もない。少なくともいまのところは……とつけ加えかけて首を横に振った。いま何もなければそれでいい。いままでのことは終わってしまったのだし、これからのことをいま考える必要はない。


『王様の結婚』佐藤正午




 六畳一間の部屋のなかへ入ると女はいつも二つばかり年をとる。男の眼にはそんあふうに見える。とくに仕事帰りの女と一緒に部屋に入るときは、はっきりそれとわかるように女の顔は二つほど老けて見えた。女はショルダー・バッグと薄手のジャンパーを肩から降ろすと、ベッドの上に放り出すように置き、テーブルのまえで横座りになった。すぐそばのベッドに背中をあずけ、髪を束ねていた輪ゴムとピンをはずして首を二度、三度と振りながら、グラスと氷を、と男に言う。コタツの板を裏返しにして一年中使っているテーブルの上に氷を入れたグラスが二つ置かれた。その横に赤い輪ゴムと銀いろのピンがころがっている。そして伏せて重ねられたトランプのカード。女はグラスの氷を一つ口に含み、顔をしかねてゆっくり噛みくだいてから言った。

「飲み物を持ってきてよ」


『王様の結婚』佐藤正午




 女たちが去った後も、男は長いあいだ同じ姿勢で事務所の窓に背中をあずけて立っていた。焦茶色のVネックセーターを着た男は、駐車場の灯りが半分ほど照らしている歩道を、それからガードレールとその向こうの大通りをぼんやり眺めつづけた。歩道を歩く人影はまばらで、国道を降りて駐車場へ向う車は一台もない。事務所の電話が鳴り、正確に十回鳴りひびいて止んだ。通りを往来する車の音が近くなり遠くなる。あの女たちはすっかり変ってしまった、と男は思う。十年まえお揃いの紺の制服姿の女の子たちは、おれは少し感傷的になっているのかもしれないけれど、あんなにあたりかまわず大声で喋ったり大口をあいて笑いはしなかった。ちょうどこの三年間、おれが言葉を一つ一つ呑みこんで胸の奥にしまうことを覚えたように、彼女たちは大声にお似合いの、年相応の言葉づかいを覚えた。おれが一日一日と偏屈になっていく自分をどうしようもできず彼女たちに古いラジオみたいだと陰口をきかれる分だけ、彼女たちは一年一年ブレーキのきかぬ見苦しいほどの陽気さを身につけていくようにおれの眼にはうつる。おれの眼はいま感傷に濡れているかもしれないけれど、三年前 冬 ちょうど三年前のきょう この街で 突然 十代の女の子が三十近い女になって外見や言葉つきが変るのは当然のことかもしれないけれど、男はズボンのポケットに両手をつっこんだまま立って事務所の窓によりかかり、自動車のヘッドライトが遠くで幾つも小さく灯って、信号の変わり目のせいでそれが一斉に輝きを増しながら近づき、また夜の闇のなかへ遠ざかっていくのを見守っている。ずっと昔、と男は思い出す。絵や文字を描いて遊んだ玩具とおなじように、彼女たちは長い歳月をめくることで十代の笑いや言葉やはにかみを消してしまった。そしておれは三年前の出来事を消そうとしていま 三年前のきょう この街で 突然 消しきれず、いちどめくったビニールの上にもういちど描こうとしている。この三年間、終ったこと一つ一つ確実に棄てていくように努めてきたはずなのに。三年前のきょうこの街で突然。男はレモンいろの車が通りをそれてこちらへやってくるのを眼にとめた。おれは思い出そうとしている。「咲子さんちょっと」ってあいつの友だちが呼んだのでおれは笑った。もう二十年も昔のテレビ番組。江利チエミ? いつ死んだんだっけ。レモンいろの車がガードレールに寄り添うように止った。いったいおれは何を思い出そうとしているんだろう。咲子が車を降りた。江利チエミの姑役の女優、毎週毎週「咲子さんちょっと」って呼びつづけた女優……葦原……葦原邦子。十代の女の子たちはどんな笑い方をしどんな言葉を使いどんなはにかみを見せただろう。三年まえのあの女の何がいまおれの胸を感傷で熱くするのか。そう彼女たちは確かに十年の月日を身にまとい、代りに棄てるものは棄ててきた。けれどおれにはただ三年の空白があるだけで、いまもあのときのままに感じ、物を見て聞いている。おれは棄てなかった。しかし三年まえ、おれは何を棄てなかったのか。冬ちょうど三年まえのきょう、いったい何を棄てないでいまも待ちつづけているのか。この街で突然。咲子が言った。

「横着ねえ。どうして出ないの? 十回も鳴らしてるのに」


『王様の結婚』佐藤正午




「音楽を聴いてたの」

 と女は顔をあげた。ピンクに色とりどりの花模様を散らしたこたつ布団の内側へ両腕をもぐりこませて肩まで埋まると、立て膝をついた。残りの四十枚のカードが布団を辷り落ちて男の足もとで止った。

「ジョン・レノンの命日だったんですって。三年前のきょう。撃たれたんだって」

 男はカードを拾い集めてテーブルの上に置き、女のとなりにおなじようにベッドを背にしてすわった。

「ねえ、トランプの独り遊びのこと何ていうか知ってる?」

「ソリテア」

 男はゆっくり女の肩を抱き、女は抱かれながら男の肩によりかかった。

「英語で」

「英語だよ」

「ペイシェンスっていうのよ。ペイシェンス、訳してみて」

「忍耐」

「忍耐戯」

「友だちに習ったのか」

「晉ちゃんはなんにも教えてくれないじゃない」

 と男の肩にからだをあずけたまま、片手をテーブルの上に伸ばした。揃えた指先でハートのキングを押えて、左の方へずらしながら、

「これがね、こうやって、ここまで来れば結婚が成立するの」

 と言う。ハートのキングはクイーンの右隣に並べて置かれた。

「王様の結婚。そういう名の忍耐戯なのこれは」


『王様の結婚』佐藤正午




 そのときまた電話が鳴り出した。女は立ち上り、煙草を持ってない方の手で耳もと髪を払ってから受話器をあてる。

「……はい。……ちょっと待って。いまさがしてくるからちょっと待って」

 まるで子供をあしらうようにそう言って、鐘ヶ江に軽く顎をしゃくってみせた。

「どうする?」

「…………?」

 受話器をふさいだ女の指先で煙草の灰が微かにふるえて、モス・グリーンの腰のあたりを汚した。

「女。気ちがいみたいな女。初めて聞く声みたい」

 鐘ヶ江は無言でピンクの受話器を握った。手のあいた女はふたたび腰をおろし、片手でストーブの芯を調節しながら、

「電話のマナーがなってないって言ってやるといいわ。何があったか知らないけど。礼儀知らずの女くらい嫌なものはないって」


『王様の結婚』佐藤正午




 駅の手荷物預かり所で半券と引換えに、男は傘を受け取った。係員はそのナイロン生地の雨傘を渡すとき、これでまちがいないかと二度念を押して訊ねた。男はあたりを気にしながら無言のまま二度じれったそうにうなずき、ひったくるように掴み取ると、ろくに確かめもせず足早に歩き去っていく。女物の傘を両手で大事そうに抱えた後姿を見送って、初老の係員は首をかしげた。

 六月の空は灰いろにくすんでいる。六月の街は薄い靄のなかで蒸し暑さにじっと耐えている。日曜の午後だから、駅前の交叉点で信号待ちをしている男のそばには、地味な背広やワイシャツやネクタイ姿の通勤客は一人も見えず、たとえばリュックサックを背負った子供とその若い両親、野球のユニホームを着た小学生の団体とそれを引率する赤ら顔の中年、お揃いのジャンパースカートにハイソックスをはいてお喋りに夢中の女子中学生二人、そしてパーマをかけたばかりの髪型をした五十過ぎの太った女は、独りごとで暑いあついと呟いてはハンカチを額に押しあてている。目の前を走る自動車の群れが彼女の暑さをつのらせる。タクシーが走りバイクが走り自家用車が走りライトバンが走りトラックが走りバスが走り、それから候補者の看板を屋根に掲げた車がゆっくり走る。拡声器から名前を連呼し、窓という窓から突き出した白い手袋の掌を揺らしながら。人々は横断歩道の両側に立ちつくして、灰いろにくすんだ大気の匂いと自分の汗の匂いを嗅ぎ、拡声器を通した男のしわがれ声や甲高い女の声を聞いている。衆参両議院の同時選挙は一週間後に迫っている。


『青い傘』佐藤正午




「私はむこうへ。伊藤さんは?」

「さて、どうしよう。気ままな散歩だから」

「よろしかったらご一緒しません?」

「教会へ?」

「いいえ、途中まで。近くに美味しいコーヒーのお店があるんです」

「これから……ふたりで?」

「ええ」

「いいんですか? 遅れても」と男は思わず真剣な眼ざしで訊ね、それからあわてて笑顔をつくった。「キリストは何も言いませんか」

「いいんです、どうせ寝坊しちゃったんだから。一時間くらいなら遅れても、ベター・レイト・ザン・ネヴァ」

 英語科の女教師は微笑み、先のとがったピンクいろの舌を出してみせた。男は傘のことをしばし忘れるほど戸惑っていた。女の息が漏れるような独特の発声法が、このときほど男の耳を刺激したことはなかった。この女がこんな仕草を、こんな茶目気を見せるなんて、学校ではすまし屋で、男嫌いの評判で通っているこの女が、おれをお茶に誘うなんて。


『青い傘』佐藤正午




   プロローグ


 1 動物公園


「寝てるのか」

 と、芝生のうえに寝そべって眼をつむった男が訊ねた。その横で、両膝を抱えてすわった青年が、

「いいえ」

 と答えて、相手に顔を向ける。眼を閉じた男の両手は頭のうしろで組まれていた。半袖のポロシャツからのぞく色白の二の腕のあたりを蟻が一匹這っている。注意してやろうかどうか迷っているうちに、男が言った。

「愛は入れたっけ?」

「愛?」

「ラブ・マシンて店にいたろ。ニワカせんべいみたいな顔した女が」


『リボルバー』佐藤正午




 こんど会ったら殺してやると、あの夜ぼくは呟いたけれど、それは一晩かぎりの怒りが、口にさせたもので、一週間たち、二週間がすぎ、一月になれば現実味はこれっぽっちもない。ぼくはあの夜、男の拳に対して無力であったようにいまも無力であり、この先も無力だろう。ぼくは喧嘩の仕方さえ知らない。ショルダーバッグを放って立ち向うことすらできなかった。男を殺すなんて(あの夜あの一瞬そうしたいと思ったのはたしかだが)まるで夢物語だ。もういっぺん会ったってまた殴り倒されるのが落ちだ。だから、あの男を殺すという夢想と同じように、あの男を探して北へ旅立つ計画にはほとんど現実味がなかったのだ。僕は今日まで、ついさっきまでそう考えていた。考えるのをやめようとさえしていた。

 しかしいまは違う。パトカーのサイレンが遠くなっていくのを聞きながら、少年は思った。いまぼくの内ポケットにある物。これは夢想ではない。ぼくはきっといままでのようにいつでも腕力のない男として生きていくのに違いないけれど、これは無力ではない。男の拳以上の力を持っている。あの夜といまは違う。いまなら、この力を借りて現実にあいつを殺すことだってできるのだ。そしてそれならば、ぼくはあいつを探して旅立つことだってできるのではないか。ぼくは十七歳の高校生だけど。他の街へ行く切符を買うことも、二千キロ離れた街へ旅することも、これがあれば可能になる。


『リボルバー』佐藤正午




 こんど会ったら殺してやると、あの夜ぼくは呟いたけれど、それは一晩かぎりの怒りが、口にさせたもので、一週間たち、二週間がすぎ、一月になれば現実味はこれっぽっちもない。ぼくはあの夜、男の拳に対して無力であったようにいまも無力であり、この先も無力だろう。ぼくは喧嘩の仕方さえ知らない。ショルダーバッグを放って立ち向うことすらできなかった。男を殺すなんて(あの夜あの一瞬そうしたいと思ったのはたしかだが)まるで夢物語だ。もういっぺん会ったってまた殴り倒されるのが落ちだ。だから、あの男を殺すという夢想と同じように、あの男を探して北へ旅立つ計画にはほとんど現実味がなかったのだ。僕は今日まで、ついさっきまでそう考えていた。考えるのをやめようとさえしていた。

 しかしいまは違う。パトカーのサイレンが遠くなっていくのを聞きながら、少年は思った。いまぼくの内ポケットにある物。これは夢想ではない。ぼくはきっといままでのようにいつでも腕力のない男として生きていくのに違いないけれど、これは無力ではない。男の拳以上の力を持っている。あの夜といまは違う。いまなら、この力を借りて現実にあいつを殺すことだってできるのだ。そしてそれならば、ぼくはあいつを探して旅立つことだってできるのではないか。ぼくは十七歳の高校生だけど。他の街へ行く切符を買うことも、二千キロ離れた街へ旅することも、これがあれば可能になる。


『リボルバー』佐藤正午




   プロローグ


「あんたはいつも片眼を閉じてるから駄目なのよ」

 と、よく叔母は言った。

「片眼を閉じてるから、世の中の半分しか見えていないんだよ」

 しかしもちろん、ぼくはいつも片眼を閉じて生活しているわけではない。叔母がぼくを見るたびに腕組みをし、ためいきと一緒に口にする決まり文句は、だから軽い皮肉を含んだ比喩なのである。つまり叔母は、ぼくのこれまでの人生における失敗を、とくに女性問題に関する数々の失敗を、文芸批評家がぼくの小説を扱うとき必ず欠けている洗練されたレトリックとイマジネーションを用いて上手に批評してくれている。あるいは同情してくれている。あるいは共感してくれている。叔母はしめくくりの文句としてよくこう言った。

「あんたはまちがいなく、あたしの甥ってことだねえ」


『ビコーズ』佐藤正午




   1


 賭け事をする男とだけは一緒になるな。

 それが母の遺言でした。遺言といっても、いまわのきわの枕元で聞かされたわけではないし、そのことばを書きつけたものがのこっているのでもありません。母は仕事から帰った夕方、服を着替えるひまもなくいきなり茶の間でたおれ、救急車で病院へ運ばれて三日後に意識の戻らないまま死んだ。七年まえのことです。わたしが二十三歳になったばかりの冬だった。脳動脈瘤破裂というのが死因だと、あとで医者にいわれました。


『恋を数えて』佐藤正午




   プロローグ


 子供のころから名前では苦労している。そのことで何べん父親を恨んだかわからない。ぼくの名は、


    光


 と書いて、ひかる、と読むのである。名付けたのが父だ。九つの年に初めて自分の名が原因で悲しい気持ちを味わい、半べそをかきながら母に文句を言ったのだが、そのとき、

「お父ちゃんに言いなさい。お父ちゃんに。あんたの名前をつけたのはお父ちゃんなんだから」  と逆に叱られて、母親に罪はないことを知ったのである。もっとも、


    野呂


 と書いて、のろ、と読む姓を持つ男の家に嫁いだ女を、いまはちょっぴり恨まないでもないけれど。ともかく、ぼくの名前は野呂光という。のろ、ひかる。奇妙な名前だ。奇妙な姓と名の組合せだ。ぼくはこの名前と今年で三十一年つき合うことになる。


『恋を数えて』佐藤正午




 後で本人から聞いたところによると、その日、竹中昭彦は買ったばかりの自転車で床屋に出かけようとして雨に降られた。ただ濡れるのはいやだという理由で、彼は咄嗟に目についた美容室で髪を刈ることにしたのだった。

 これくらい短くでもいいですか? と合わせ鏡を見せられても、もっと、もっと刈り上げてくれと何度も頼んだのは、カットする時間が長引けばそれだけ彼女と話す時間も長くなると考えたからだった。本人が後にそう打ち明けたのだ。おかげで彼の髪はこれ以上短くなできないほどの刈り上げになったし、次の店休日には彼のほうでも休みを合わせて二人で『フォレスト・ガンプ』を見に行く約束まですることができた。帰り際にレジのそばに立った彼女の顔には、刈りすぎた男の髪の毛が気の毒なくらいくっついていた。できれば僕の手でそっと払い落としてやりたいくらいだったと、これも後に竹中昭彦が出会いの日を思い出して語ったのだった。

『バニシングポイント』佐藤正午




「そうだね。そうだったのかもしれない。でも、思い出すと良心がとがめる。相手がどう感じようと、声をかけてみるのと、だまって通り過ぎるのとでは、後味がぜんぜんちがう。妻にやりこめられてわかったんだけど、僕は自分でもずっと気に病んでいた。あとで気に病むくらいなら、その場で声をかけるほうがずっといい。車を停めてひとこと、どうしたんですか? と訊ねればよかった。どうせ最後にはおまわりさんが来るんだとしても、そのまえに」

「ああ」リップクリームを使う手がとまりました。「そうか」

「どうした?」

「いまおじさんが喋ってるのはあたしのことなんだ」

「うん?」

「今夜あたしに声をかけてくれた理由を喋ってるんでしょう?」

『身の上話』佐藤正午




 ソファで横になっている本人以上に、そばで聞いている側のほうが安心するようなおだやかな規則正しい寝息だった。眠る人間が寝息をたてる。もちろん新しい発見ではない。でもそういう安心しきった人間を一対一で、そばで目にするのは久々のような気がした。息を吸う音と、息を吐く音の単調なくり返し。おだやかな波が寄せて、退いてゆく。浜辺の砂をならして、退いてゆく。耳をすますとそれはいつまでも続く。そのうちにふと僕は気づく。いま僕がここにいるのとはまったく別の時間と空間、ここより狭い部屋、低い木目の天井、古畳の匂い、鉄の輪っかの引き手のついた箪笥、襖をへだてて洩れてくる低い話し声、そんな昔の記憶をひとつひとつ拾いあげてみている自分だ。

 実際、僕はもっと具体的な懐かしい記憶をそのとき思い出しかけていた。ここではないどこかで、誰かと、誰か大切に思う人と、手を握りあっている記憶。いま彼女のたてている寝息と同じように、安心できる、おだやかな感情をもたらしてくれる誰か。僕の人生のなかでのいちばん大切な誰か。でも正直いうとそれが本物の記憶であるかどうかは自信がなかった。いまもってわからない。僕はただその夜、自分が思い出したいと願う偽の記憶を思い出そうとしていただけかもしれない。思い出そうと試みたのはほんの数分だった。ほんの数分のあいだ僕は彼女の寝息に耳をすまし、そしてよみがえりかけた記憶に諦めをつけ、映画に戻った。毛布の下で握りあっていた手を苦労して離してみたが彼女は目覚めなかった。

『5』佐藤正午




「柏木君のことは、わたしもホントに残念に思っているし、彼のことは忘れない」

 上級生がふざけて改変したチェーホフの芝居を「くだらない」と評価し、章子もそう思っていることを見抜いて、話しかけてきた  

「だけど、それとこれは別。わたしね、いつか柏木君のことは書こうと思ってる」

 芝居の登場人物として。

 章子は片手を胸にあてた。「わたしは創作を志す者だから、自分の心のなかの痼りには、そういうふうにして向き合うのがいちばんだと思う」

 現実とは向き合わないわけねと言いかけて、涼子はやめた。

「でもわたし、涼ちゃんの親友であることに変わりはないよね?」

 ないよね? なんて、尋ねなくてはならないのは、もうそうじゃなくなっているからだ。賢い章子はそれを知っていて、サヨナラの代わりにそう言ったのだろう。さよなら藤野涼子さん。今のあなたにはついていかれない。親友は去ります。呆気ないものだった。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「あたしも一緒に行く」

  そりゃまぁ、勝木さんが来てくれれば心強いけど」

「嘘言ってんじゃないよ。あたし、北尾にこの裁判のこと話したんだ。そしたら、加勢してくれるって。岡野先生はいい顔しないはずだから、援護射撃が要るってさ」

 つまり北尾先生を抱き込んだわけだ。

「藤野、あんた高木にぶっ叩かれたとき、診断書とった?」

 それほどの怪我ではなかった。

「バ〜カ。ホントのところなんかどうでもいいんだよ。診断書とっておくことに意味があるんだ。あんたってやっぱ、先公と渡り合うことについちゃ経験不足」

 涼子は笑ってしまった。「うん。でも大丈夫よ。うちの母がいるからね」

 藤野邦子は完全に戦闘態勢に入っており、全面的に涼子たちを応援するという。

「あんたたち、『七人の侍』だね。頑張りなさい」

「どういう意味?」

「ビデオを借りてきてあげるから、あとで観るといいわ」


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「……ありがとうございます」

「何だよ」

 照れているのだろう。ずんずん歩く。

「いいんですか。辞表なんか預けちゃって」

 へへ、と先生は声を出して鼻で笑った。

「藤野、先生をいくつだと思う?」

 五十四だよ、と言う。驚いた。もっと若いとばかり思っていた。

「俺は校長や教頭になれるタイプじゃないからな。このままほっかむりして無事に勤め上げたって、たかが知れてる。だったら、教職生活の最後に、いっぺんぐらいカッコいいところを見せたっていいだろ?」

 食っていくのは、何とでもなると言った。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「でも、彼はいじめられるようなタイプじゃなかったと思う。誰かに強制されてあれこれやらされて、パシリにされたりして、悩んだりするような性格じゃなかった」

 うん、と誰かが小声で言った。とてもしおらしい感じなので、すぐには誰だか見当がつかなかったが、佐々木吾郎だった。

「オレもね、最初っからずっとそんな気がしてたんだよね、実は」

 そうなの  と、教子と弥生のコンビが呟く。

「何ていうかサ、もっと超然としてた気がするんだ。近寄りづらかったしな」

「うん、わかる」向坂行夫もうなずく。しみじみとして、何度も自分自身にうなずきかけている。「僕なんかホントに彼のことよく知らないけど、それはピンとくるよ」

 涼子は、古野章子の話を思い出していた。おふざけで改変されたチェーホフへの柏木卓也の反応。

「大人  だったのかな」

 小首をかしげて、山埜かなめが言った。みんなが彼女に注目すると、まばたきをした。

「大人びてた、というのかな。そういう子って、たまにいるでしょう」


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「俺は柏木のこと、大人コドモだと思ってたんだよ」

 身体はコドモのまま、頭だけ大人になる奴のことだ  

「一方の大出は、コドモ大人だ。身体とやることが大人で、頭がコドモ。正反対だ」

 大人コドモはコドモ大人と相容れない。大人コドモはそれを認識しているが、コドモ大人にはわからない。

「柏木は、大出たち三人組を軽蔑してたんだろうと思う。なんていうかな、同じ人間だと思っていなかった節がある。昆虫でも見るみたいにさ」

 大出たちだけじゃない。ああいうタイプはみんな。

「目先の誘惑に弱くて、暴力に不感症で、だらけることが好き。真剣にものを考えることなんかいっぺんもねぇ。ただ感覚だけ。好き嫌いと、面白いか面白くないかだけ。そういうのは、柏木の定義じゃ“ニンゲン”には入らなかった」

 あまりのストレートな表現に、健一はぶるってしまった。気づいたのか、北尾先生は大仰な感じで声をひそめた。

「ここだけの話だぞ。教師ってのは、本音を言わないことになってるからな」


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




 野田健一は、古野章子の顔ならよく見かけて知っている。学校内で、藤野涼子としょっちゅう一緒にいるからだ。

 ただ、話をするのは初めてだった。章子だって、野田健一という男子生徒にきちんと焦点を合わせるのは初めてのことだろう。これまでの章子にとっては、野田健一なんて、学校生活というプログラムのなかで自動描画される背景の一部に過ぎなかったはずである。

 和彦と健一と章子と、三人は区立図書館のあの庭にいた。日陰のベンチをふたつ占領して、章子を頂点に二等辺三角形を描いて座っている。彼女のギンガムチェックの袖無しブラウスと、白い綿パンツが涼しげだ。

 健一が電話をかけたとき、章子はちょうど図書館へ行こうと家を出るところだった。そして、二人が図書館へ来るというなら、勝手に来ればいいんじゃない?

 という返事の仕方をした。

「で、何なの、訊きたいことって」

 腰をおろすなり、勝ち気そうな切り口上だ。真っ直ぐ健一を見ている。睨むような強い視線。電話でのやりとりにしろ、この口調にしろ、今までのイメージと違う。もうちょっと優しいタイプの女子だったと思うんだけど。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「何よ、あんたなんか」

 よそ者のくせに  と、章子は吐き捨てた。毒づくという言葉の実用例を、健一は初めて目の当たりにした。

「あんたなんかが面白がってちょっかい出すから、こんなことになっちゃったんじゃない! あんたさえいなかったら、涼子だって何もしないで済んだのに。正義感ぶっちゃって、一人でいい気になってンじゃないわよ!」

 千の針と万の折れ釘を込めた手投げ弾だ。

 言われた和彦が固まるのはわかるが、言った章子の方も、息を吐ききって石みたいになってしまい、みるみる青ざめる。それでも、いっそ痛ましいほどのきつい目つきで和彦を睨んでいる。

 ベンチのあいだを風が吹き抜ける。

 和彦がまばたきをした。そしてバカみたいに真面目に座り直すと、頭を下げた。

  申し訳ないです」

 健一はほっと気を緩めた。

 途端に、古野章子が両手で顔を覆ってわっと泣き出した。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「マジでまずいよ!」

 健一はベンチから飛び上がり、神原弁護人のシャツの背中をひっつかんだ。

 そのとき、章子が両手を挙げて叫んだ。

「うるさ〜い!」

 叫びながらベンチから立つと、両足で地団駄を踏み、うるさい、うるさい、うるさい、と繰り返し叫んだ。目はぎゅっと閉じたまま、拳を握って身体の前で振り回し、まるで幼稚園児だ。

「大丈夫に決まってるでしょ! 何もされてないわよ! あたしが勝手に泣いてるだけよ! 見りゃわかるでしょ! バカじゃないのあんたたち!」

 すっくと立ち、男の子みたいに手の甲で顔の涙をぐいぐい拭うと、古野章子は彼女の騎士たちをぐるりと見た。騎士たちの方は、勢いを削がれてぽかんとしている。

「ごめんなさい。だいじょうぶだから」

 章子はぺこりと彼らに一礼した。

「神原君と野田君と、ちょっと話をするだけだから。ホントに平気だから。引き取ってください」

 五人の騎士たち  今では気の抜けた単なる中坊の五人連れ  は、しおしおと後ずさりするように引き揚げていった。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「そんなことがあったなら」

 勢いよく言い出し、いったん言葉を切って、まるで何かを宙に留め付けるような鋭い目つきになり、章子は続けた。

「柏木君は死なないと思う。むしろ、大出君を殺そうとすると思う」

 自分の言葉を自分で裏打ちするように、二度、三度と深くうなずく。

  なんでそんな確信があるの」

 こぼれ出た健一の反問に、よくぞ訪ねてくれたとばかりに、章子は身を乗り出してきた。

「あたしなら、そうするから。だから柏木君もそうだと思うの。柏木君があたしの感覚センスを気に入っていて、あたしの書く物を褒めてくれてたのなら、あたしのこの理解は間違ってないと思う」

 ボールペンを握りしめたまま、健一は我が目を疑った。一瞬、確かに、古野章子に柏木卓也がかぶって見えたのだ。

「それなら」ゆっくりと、和彦が訊いた。「どんな理由があったら、柏木君は自殺すると思う?」

 古野さんのなかにいる柏木君に訊いてみてくれ。

 章子は目をつぶり、ほっそりとした二の腕を交差させて、自分で自分の胸をぎゅっと抱いた。そしてこうべを垂れる。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




 和彦が答えると、森内先生はにこやかにうなずいた。「そう。よかったわ」

 健一は否応なしに思い出していた。森内先生は生徒の好き嫌いが激しかった。それを隠そうともしなかった。好き嫌いの基準は成績の良し悪しだけでなく、性格や外見も大きな要素となっていた。

 もしも神原和彦が去年の二年A組にいたならば、間違いなく森内恵美子担任ナンバーワンのお気に入り生徒になっていたろう。モリリンは、和彦みたいなタイプが大好きだ。えこひいきと恨まれようが、はしたないと陰口をたたかれようが、何かと言えば神原君、神原君と、でれでれ親しくしたに違いない。

 反感という蛇の毒が、健一の身体のなかを巡り始めた。

「森内先生、ずいぶんお元気になりましたね」

 よかったですと、声を強めて言った。

「僕らみんな、心配してたんです。先生、もう立ち直れないんじゃないかって」

 森内先生の目元が強張った。言葉の内容よりも、それを発したのが野田健一であるということにムッとしたのかもしれない。無味無臭で無個性で、一度だって森内先生の好感度レーダーに引っかかったことのない野田健一ごとき・・・であることに。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「半日休んで、気力体力共に回復したみたいだね」

 健一の言葉に、神原弁護人はあさっての反応を返してきた。

「うちの学校にも、いる」

 ああいう先生、という。

「モリリン?」

「うん。男子校だから、表現形としてはやや異なるけど」

 わかり易い先生だよね、と笑った。「あれじゃ、藤野さんにも見切られてるんだろうな」

 健一はきっぱり言った。「藤野さんはモリリン、嫌ってるよ」

「やっぱり」


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




 柏木則之はしげしげと和彦を眺め回すと微笑した。

「こんなこと言っていいのかどうかわからないけど、君はちょっと、卓也に似ている。顔形とか背格好じゃなくて、雰囲気が、だから記憶に残ってたんだろうかね」

 健一は意識して下を向いたままでいた。メモの端っこに、今の柏木則之の発言を小さく書き留めることに集中し、余計なことを考えないようにして。

「卓也は友達が少なくて、孤独な子だった」

 それを悼んだり悲しんだりしているのではなく、淡々とした口調だった。

「でもそのことで、あの子が悩んでいる様子はなかったから、私も深刻に受け止めてはいなかったんだよ。私自身、人付き合いの多い方じゃない。いっそ人嫌いだと言ってもいいような性格でね。子供のころからそうだったし、今も変わらない」

 夫の言葉に、功子は何も言わない。

「それでも、あの子が学校に行かなくなったときは、初めてあわてた。大あわてだったよ。その前に、あの子が学校で目立つ不良グループと派手な喧嘩をしたと聞いたときにも驚いたけど  


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「学習塾の世界も、過当競争で大変なんだ。あの先生は一匹狼でさ、群れるのが嫌いだったから、味方がいない。ていうか味方を欲しがらなかった。だからああいう局面になると、根も葉もない中傷でも、けっこう応えたんじゃないかな。なかったことをなかったと立証するのは、ホントに難しいからね。結局、塾をたたむしかなくなっちゃった」

 思わず、健一は言った。「似てるね」

「え?」

「柏木君がその滝沢先生のこと好きだったのは、自分と似てたからじゃないのかな」

 一匹狼。群れを嫌う。

「神原君も、ちょっとそうだ」

「僕は一匹じゃないと思ってたのに、ショックだなあ」


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




 大出家家宅捜索開始の一報を持って馳せ参じた二人を、藤野涼子はあっさり家に上げてくれた。いやこの場合は、涼子の母の邦子がそうしてくれたというべきか。しかも、「チビたちが騒ぐから」と、二人を涼子の部屋にまで通してくれたのだった。

 女の子の部屋だ。それも藤野涼子の部屋だ。藤野涼子の机に藤野涼子のクロゼットに藤野涼子のベッドだ。健一は脳みそと心臓と胃袋の位置が入れ替わってしまったみたいで、身体の変な場所がドキドキしたり、熱くなったりした。

 涼子のベッドはきちんとメイクされて、カバーがかかっていた。パジャマはどこにも見あたらない。脱ぎ散らかした衣類もない。もちろん、健一たちが来るから片付けたのだろうけれど、日ごろからこういう感じなのだろう。几帳面な藤野さんらしい、と思った。

 というような余計なことにとらわれていた健一は、ほどなくして部屋に入ってきた涼子の鋭い視線に、頭の内側を見透かされたような気がして、あわてて目を伏せた。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「たぶん……ひっく!」

 今までで最大のしゃっくりが飛び出した。涼子が焦れたように膝立ちになって、

「野田君、普通に水を飲んだってダメよ。しゃっくりを止めるには、グラスの反対側から飲むの。やってごらん、一発だから」

「は、反対側って?」

「だから反対側。口から遠い方」

 健一は手にしたグラスを見た。それには、かなりアクロバッティックな姿勢をとらねばならないのじゃないか。

「鼻から水が入らないか?」と、和彦がいぶかる。

「そうならないように、上手く飲むのよ。こうよ、こう」

 涼子が牛乳の入ったグラスを取って、手本を示してくれる。上体をうんと前に倒して、ほとんど頭を逆さまにするのだ。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「あんたね、いい気にならないでよ」

「いい気も何も、藤野さんが謝るからさ。それなら謝罪を受け入れて、話を建設的な方向に進めようと  

 健一は固まっていた。僕はここにいません。全然、まったく、居合わせていません。

「何が建設的よ。できるわけないでしょ、そんなこと」

「別に、直に連絡したっていいんだけど、藤野さんを通さないと、余計な手間がかかりそうだからさ。この際、ちょうどいいかなと」

 涼子は本格的に怒り出した。「その理屈、おかしいわよ!」

「おかしくないよ」

 和彦は大真面目な顔をしているが、顔だけだ。実は楽しんで  いや、面白がるってる。健一にはわかる。

 藤野涼子は、怒ると可愛い。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「神原の言うとおりだ」

 予想外の方向から声が飛んできた。全員がそちらへ向き直る。

「自分の判断を疑うなんて、藤野涼子らしくもない」

 呼び捨てで言い放ち、通路から待合室の蛍光灯の下へきびきび進み出てくる。判事担当の井上康夫だった。銀縁眼鏡の縁を光らせ、白シャツに制服の黒ズボン。ちゃんと着替えてると、健一は余計なことを考えた。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




   怒るというより、怖くなったんじゃないかな。

 自分の勝手な思い込みで物事を動かし、上手くやっていると思っていた人間が、現実はそう甘くない、バレてるぞ、今にしっぺ返しを食うぞと突きつけられたのだ。

 垣内美奈絵は混乱し、恐怖して、何が何でも森内先生を黙らせなければならないと思った。森内先生を消してしまおうと思った。それが暴力行為につながった。

 そして逃げたんだ。今ごろは本人も我に返り、ことの重大さに震えているんじゃないだろうか。

 健一の胸に、すとんと落ちるものがあった。

 制御できない怒りや恐怖にかられ、破壊的な暴力をふるう。でもその瞬間が過ぎ去ると分別が戻ってきて、自分のしでかしたことに押し潰されそうになる。

 それは和彦の実の父親がやったことと同じだ。

   死んでなきゃいいけど。

 さっきの和彦の呟きは、垣内美奈絵に同情したからじゃない、こういう出来事の行き着く先を、冷静に見据えた言葉だったのだ。自分の父親がそうだったから。

 だから、健一にだけ聞こえるように呟いたのだ。


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「竹田和利」

 呼ばれて、のっぽの竹田がまばたきをする。

「オレ?」

「はいと言え」

「ああ、はい」

「小山田修」

「はいよ」

「山埜かなめ」

「はい」

「鎌田教子」

「はい」

「溝口弥生」

「はい」

「向坂行夫」

「はい」

「倉田まり子」

「ハイ」

 まり子の声だけトーンが高く、震えている。

「勝木恵子」

 恵子はうなだれている。

「勝木恵子」判事は繰り返した。

  はい」

 か細い声だけれど、聞こえた。

「この八名を本法廷の陪審員に任命します」

 井上判事の宣言に、陪審員たちは沸き立った。手を叩き、握手を交わす一同のなかで、一人だけ顔を伏せたままの恵子を、かなめが背中から両腕で包むようにする。

「みんな、頑張ろうね」


『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき




「でもあの人、ボロボロだった」

 溝口弥生は、垣内美奈絵が去った扉からまだ目が離せない。幽霊が現れて、消えていった扉だ。

「人を呪わば穴二つってことよ」

 教子の言葉に判事も言った。「真実だな」

 そうだね、真実だね。

 あたし、どんな大人になってもいいから、大した大人にはなれないだろうけど、それでも、あんな真っ暗な目をした幽霊もどきにだけはなりたくない。

 それが倉田まり子の人生の目標だ。


『ソロモンの偽証 第V部 法廷』宮部みゆき




「品のいい奥さんだったわよ。小柄でね」

 風呂敷包みを持っていた、という。

「今時珍しいでしょう。あれ、和服じゃなかったかなあ。畳紙に包んだ和服」

「仕立て屋なのかな」

「お茶やお花の先生かもしれないわよ。感じのいいお母さんだった。優しそうで」

 仲良しになれそうな気がしたと、邦子は言って、自分で笑った。

「もう仲良しって歳じゃないけどね、あたしたち」

 藤野邦子は、仲良しなんて言葉に象徴されるベタな人付き合いが苦手である。社交好きでもない。彼女がこんなこと言うのは珍しい。なるほど確かにその婦人は神原和彦の母親だったのだろうと、藤野は納得した。あの子を育てた母親なら、邦子が好印象を持ったとしてもおかしくない。


『ソロモンの偽証 第V部 法廷』宮部みゆき




 怖い。怖くてたまらない。

 昨夜はひと晩じゅう考えていた。こんなことになるんだったら、知らん顔をして裁判には関わらず、おとなしくしていればよかった。受験勉強していればよかった。その方が野田健一らしかった。

 一生懸命そう思って、自分の胸に言い聞かせてみるのに、でも一向に心に沁みてこない。自分の考えが、本当らしくも聞こえない。それが不審で訝しくて、眠れずにまた考えた。いったい、野田健一らしいって、どんな<らしい>なのだろう。

 僕はもう、裁判が始まる前の僕じゃない。じたばたしたって無駄だ。新しい一日をひとつずつ積み重ねて、ここまでやってきた。もう後がなのではない。もう後戻りはできないのだ。


『ソロモンの偽証 第V部 法廷』宮部みゆき




 山埜かなめが、溝口弥生が、その顔を見ている。蒲田教子はメモをとっている。

「僕自身のなかでは、柏木君に問われる疑問の答えが、何となく見つかったような気がしてきていましたし」

 その分、柏木卓也がウザくなった。

「こういうことを柏木君と話すようになる前、まだ小学生のときですけど、僕は一度だけ、養父母に訊いたことがあるんです。何で僕はお父さんお母さんのとこにいないのかって。何で僕だけここにいるのって」

 堪りかねたように、小山田修が顔を伏せた。

「そしたら養母が、こう言いました。わからない。わからないけど、おまえがここにいてくれてよかった」

 萩尾一美がしゃにむに顔をこすっている。わかったよ。わかったから、萩尾さんの方を見ませんから、そんなに隠さなくていいよ。

「そのときはまだ小学生ですから、ピンときませんでした。でも  結局、その言葉が充分な答えなんじゃないかって」

「わたしもそう思います」

 言って、藤野検事は素早く判事に謝った。「失礼しました。今の発言は記録から消してください。個人的な感想です」


『ソロモンの偽証 第V部 法廷』宮部みゆき




 どんな悲劇でも、平凡よりはいい。劇的な人生が欲しい。自分は断じて<そこらの誰か>ではないと自負しながら<そこらの誰か>でいることに甘んじるより、悲劇が欲しい。

 たいていの十代が、一度は考えそうなことだ。だが不運にも、卓也の前にはそういうお手本がいた。現物がいた。ただの想像の産物ではなく、生きてそばにいて、一緒に笑ったり勉強したりしていた。

 卓也は彼になりたかったのだ。


『ソロモンの偽証 第V部 法廷』宮部みゆき




<世の中には、こんなにも悪意が満ち溢れているんですね>

 彼女から来たメールの文面が泣いているように、私には見えた。

 汚いボロ儲けをしやがってと、我々に悪意を投げつけてくるのは、ごくごく限られた人びとであるはずだ。だが、匿名の情報の巨大な集積場であるネット社会では、十人の常識人の発言を、たった一人の扇動者が簡単に打ち消してしまうことができる。

「殺人事件の被害者の遺族が加害者に賠償金を求めただけで、そんなに金が欲しいのかって詰られるようなご時世だからね」

 ため息混じりに、マスターが言っていた。「金が敵の世の中なんだよ」


『ペテロの葬列』宮部みゆき




「東京に出たら、みっちゃん、明るくなったんです」

 学生時代は石のように無口な少年だった。それが、むしろ多弁になった。

「ただおしゃべりだってわけじゃないんですよ。話が上手になったっていうのかしらね。相手に合わせられるんです」

 周囲の大人を憚り、息を潜めて暮らしていた少年時代が、光昭に、他人を観察する集中力を与えた。彼はよく人を<見た>。その洞察が、その相手とはどのように付き合ったらいいか、どんな言葉を選んで話したらいいかを彼に教えた。

 こちらの本心は隠したままで。


『ペテロの葬列』宮部みゆき




「バラバラね。変革のとき来るって感じかな」

 良いことにはかならず終わりがくるのよ、と言った。

「良いこと?」

「そうよ。だって楽しかったじゃない。いろいろあったけど、あたしたち、いいコンビだったと思わない?」

 私は何も言えなかった。

「今度のことで迷惑かけちゃったし。あたしの方から言うべき台詞じゃなかったか」

「いいえ、いいコンビでした」


『ペテロの葬列』宮部みゆき




 不幸な話ですなあと、社長は呟いた。

 ほうぼう歩き回り、いろいろな人から話を聞くのは、やるせない作業だった。日商フロンティア協会の一件では、誰も得をしていない。一時はバラ色の夢を見た。儚い夢だった。ただの夢なら実害はないのに、この夢は現実を侵食し、後腐れを残した。その事実が私自身の身体にも染み込み、饐えた臭いを放ち始めているのではないかと、気分が萎えた。

 その分、この電器店の社長のような人に出会うと救われる。人は基本的には善人だ。そしておそらくこの社長のような人は、どんな状況に置かれても善人であろうとするだろう。まわりに流されず、正しいことと間違ったことを、自分のなかでしっかりと見極めて行動するだろう。

 私もかくありたい  と思いながら社に戻ると、まるでその思うを試すようなハプニングが待ち受けていた。


『ペテロの葬列』宮部みゆき




 補修工事の際に取り付けられたエレベーターは、建物の奥の端にある。中央にある外階段の前を足早に通り過ぎるとき、階段脇のゴミ置き場の陰で、人影が動いた。誰かがパッと身をかがめたように見えた。

 私は足を止めた。人影が動いた場所に目を凝らす。

 ゴミ箱の列の後ろに、人がしゃがんでいる。

「すみません」と、私は声をかけた。<微妙>と同じ、便利な言葉だ。誰かにエレベーターのドアを押さえてもらったときも、都営住宅のゴミ箱の陰に隠れる不審者に呼びかけるときにも、同じように使える。


『ペテロの葬列』宮部みゆき




 北見氏が亡くなった後、彼の死を知らない誰かから紹介された新しい依頼人が、あるいはかつて彼の世話になった依頼人が再び案件を抱えて、主のいなくなったアパートを訪ねてくるということが何度かあった。

 その際は、北見氏が親しくしていた団地の役員の人か、北見夫人がここに住んでからは彼女自身が、そういう来客に対応するようにしてきた。私も一度、偶然そういう場面に遭遇したことがある。北見氏を頼りに、杖をついてアパートの階段をのぼってきた老人に、空っぽになった部屋の前で出会ったのだ。かの私立探偵はもうこの世にいないのだと告げることは易しかったが、老人の落胆を受け止めるのは辛かった。北見夫人にとっても悲しい作業であることに変わりはあるまい。

 私が遭遇した老人はすぐ諦めてくれたが、夫人が対応した来客のなかには、ぐずぐず粘る向きもあった。それだけ困っているわけだが、何か困って視野狭窄に陥っている人間は、本人もまた<困った人>になってしまう場合があるという見本だ。


『ペテロの葬列』宮部みゆき




 今多家のマスオさんである私の立場は、誰が建てたどんな家に住もうと変わりがない。義父のもとに身を寄せたことで、妻が建てた家に暮らしていたときよりも肩身が狭くなったという感はなかった。そんな段階はとっくに通り過ぎていた。

 今多菜穂子との結婚を決意し、彼女の父親の要請を受けてそれまで勤めていた児童書の出版社を辞め、今多コンチェルン本社に現在の職を得たとき、私は様々な未来に覚悟を固めた。今多菜穂子の夫となることは、今多菜穂子の人生の一部になることだ。それさえ腹に決めておけば、細かいことにいちいちこだわらなくて済む。居候はどんなふうに生きようが居候だが、居候には居候の役目があり、居候なりの矜持の持ちようがあるはずだ、と。


『ペテロの葬列』宮部みゆき




 橋本氏が乗ってきたのは本部の社用車だが、ボディには社名もロゴも入っていない。広報課でよく使っているものだ。あ、シーマだと前野嬢が言った。

「お好きな車ですか」

 橋本氏の気さくな問いに、彼女はこっくりうなずいた。「わたしが小っちゃいとき、うちのお父さんの会社がまだ景気がよかったころに、乗ってたんです」

 懐かしい、と呟いた。そこから、彼女の過去と現在の家庭状況を推察することができる発言なのに、当人は気づいていないところが前野嬢らしい。そんなことなどまったく気づかないふりをできるところが橋本氏らしい。

「これは社の車ですが、僕はシーマのシートが硬いところが好きで、隙あらば借り出してくるんですよ」

「そう! わたしもシートがふわふわしてる車はイヤなんです。シーマは乗り心地、いいですよね」

 前野嬢は<素>で橋本氏は<スキル>だが、いつどんな状況で誰とでも会話に困らない、という点では似ている二人だった。


『ペテロの葬列』宮部みゆき




「でも、何かそれ、駄目だな」

「何故ですか」と、老人は優しく問いかけた。

「濡れ手に粟の一千万でしょ。そんなの、僕一人で使っちゃうわけにいかない」

「ほほう」

「一千万あったら、その分だけ、親の住宅ローンを繰り上げ返済できるから……」

 編集長が吹き出した。「つまんないわねえ。ただのゲームなのに」

「それはそうですけど」

 拘束された手を持ち上げて、坂本君は頭を掻こうとした。もちろんできやしないが、彼の気持ちはよくわかった。

「うちの親父、三十五年ローンを組んでいるんです。まだ半分も返せてない。途中で金利が上がっちゃったのに、残業カットで年収は下がってるし、家の資産価値なんかあってないようなもんだし」

「君はご両親想いだね」


『ペテロの葬列』宮部みゆき




「君もいろいろ気苦労が多いでしょうが」

 森氏は私の目を見て言う。

「菜穂子さんの幸せを守ってあげてください。ほかのどんなことよりも、生涯の伴侶と決めた女性を幸せにすることが、男にとっては最大の務めです」

 私はまた頭を下げた。「お言葉、肝に銘じておきます」


『ペテロの葬列』宮部みゆき




 私は義父の顔から目をそらし、義父の背後にある、見事な革製の世界文学全集の背表紙へと視線を投げた。

「会長は以前、私にこうおっしゃったことがあります。殺人行為は、人がなし得る他者に対する極北の権力行使だと」

 二年ほど前、私たちグループ広報室のメンバーが被害を受けたある事件の際に、義父は怒りを隠さずにそう述懐したのである。

「ああ、言ったな」

「そんなことするのは、その者が飢えているからだと。その飢えが本人の魂を食い破ってしまわないように餌を与えなくてはならない。だから他人を餌食にするのだ、と」


『ペテロの葬列』宮部みゆき




「あなたばっかり、どうしてこんな目に遭うのかしら」

 私は、その場で思いついたことを言った。

「僕は飛び抜けて幸運な人間だから、神様が、たまにはバランス調整をしないと不公平だと思うんじゃないかな」

 妻は微笑した。何となく点けっぱなしにしていた深夜のテレビに映った古いB級映画のなかで、気の利いた台詞を聞いた  というくらいの微笑みだった。


『ペテロの葬列』宮部みゆき




 つまりは因果応報、悪いことをすれば、それは回り回って必ず我が身に返ってくるという訓話に近い口碑伝承である。

「先生と話したのよ。こういうものの考え方は、日本人の心のなかにどっしりと根付いていて、ちょっとやそっとじゃ消えないと思っていたけれど、近ごろの世相を見ていると、どうやらそれは間違っていたらしい。あと十年もすれば、悪いことをすれば罰があたるなんて話は、昔話の絵本のなかからも姿を消してしまうだろうねって」

 石崎もそれは同感だ。平気で人を殺したり傷つけたりしてはばからない人間の、特に若者たちの、なんと恐ろしい勢いで増加していることか。

「でも、面白いね。面白いなんて言ったら不謹慎だけど、興味深い。悪いことをすれば必ずその報いがくるという考え方のベクトルはすたれたけど、その代わり、ひどい目に遭った人間には、きっと何かそうなっても仕方のない悪い要素があったんだというベクトルが機能し始めているわけだ。だって、犯罪の被害にあった人のプライバシーなんて、ほとんど無視されてるもんね。それでもみんな、無礼を承知で詳しく知りたがる。報せたがるのは、そのなかに何か、自分とは違う“悪い”要素が見つからないかと思うからよ。インチキな宗教の中には、災難に遭う人はみんな行いが悪いんだ、あれは報いだなんて言うものもあるしね」

 女史はちょっと顔をしかめた。

「それって、ひっくり返して考えれば、ほとんど咎が無くても殺されたり傷つけられたりする人が増えていて、自分だっていつそうなるかわからないという不安が、あたしたちみんなのあいだに広がっているということでもあるんでしょうね」

『チヨ子』宮部みゆき









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