西海市青柳町33−21というのが女の住所だった。 黒塗りの大型車をターンテーブルからほんの七八メートル前進させ、駐車塔の吊り籠のなかへおさめたところで男は思い出した。しかしそれは瞬間に閃いたという感じではなく、まるで、ゆるやかな水紋が徐々に伝って岸でさざ波をたてるのに気づくような思い出し方である。男は気の抜けた吐息を一つつき、これで解決したと思う。この三日ほど悩まされていたものから解放された。これで気にかかることは何もない。少なくともいまのところは……とつけ加えかけて首を横に振った。いま何もなければそれでいい。いままでのことは終わってしまったのだし、これからのことをいま考える必要はない。 |
『王様の結婚』佐藤正午 |
六畳一間の部屋のなかへ入ると女はいつも二つばかり年をとる。男の眼にはそんあふうに見える。とくに仕事帰りの女と一緒に部屋に入るときは、はっきりそれとわかるように女の顔は二つほど老けて見えた。女はショルダー・バッグと薄手のジャンパーを肩から降ろすと、ベッドの上に放り出すように置き、テーブルのまえで横座りになった。すぐそばのベッドに背中をあずけ、髪を束ねていた輪ゴムとピンをはずして首を二度、三度と振りながら、グラスと氷を、と男に言う。コタツの板を裏返しにして一年中使っているテーブルの上に氷を入れたグラスが二つ置かれた。その横に赤い輪ゴムと銀いろのピンがころがっている。そして伏せて重ねられたトランプのカード。女はグラスの氷を一つ口に含み、顔をしかねてゆっくり噛みくだいてから言った。 「飲み物を持ってきてよ」 |
『王様の結婚』佐藤正午 |
女たちが去った後も、男は長いあいだ同じ姿勢で事務所の窓に背中をあずけて立っていた。焦茶色のVネックセーターを着た男は、駐車場の灯りが半分ほど照らしている歩道を、それからガードレールとその向こうの大通りをぼんやり眺めつづけた。歩道を歩く人影はまばらで、国道を降りて駐車場へ向う車は一台もない。事務所の電話が鳴り、正確に十回鳴りひびいて止んだ。通りを往来する車の音が近くなり遠くなる。あの女たちはすっかり変ってしまった、と男は思う。十年まえお揃いの紺の制服姿の女の子たちは、おれは少し感傷的になっているのかもしれないけれど、あんなにあたりかまわず大声で喋ったり大口をあいて笑いはしなかった。ちょうどこの三年間、おれが言葉を一つ一つ呑みこんで胸の奥にしまうことを覚えたように、彼女たちは大声にお似合いの、年相応の言葉づかいを覚えた。おれが一日一日と偏屈になっていく自分をどうしようもできず彼女たちに古いラジオみたいだと陰口をきかれる分だけ、彼女たちは一年一年ブレーキのきかぬ見苦しいほどの陽気さを身につけていくようにおれの眼にはうつる。おれの眼はいま感傷に濡れているかもしれないけれど、三年前 冬 ちょうど三年前のきょう この街で 突然 十代の女の子が三十近い女になって外見や言葉つきが変るのは当然のことかもしれないけれど、男はズボンのポケットに両手をつっこんだまま立って事務所の窓によりかかり、自動車のヘッドライトが遠くで幾つも小さく灯って、信号の変わり目のせいでそれが一斉に輝きを増しながら近づき、また夜の闇のなかへ遠ざかっていくのを見守っている。ずっと昔、と男は思い出す。絵や文字を描いて遊んだ玩具とおなじように、彼女たちは長い歳月をめくることで十代の笑いや言葉やはにかみを消してしまった。そしておれは三年前の出来事を消そうとしていま 三年前のきょう この街で 突然 消しきれず、いちどめくったビニールの上にもういちど描こうとしている。この三年間、終ったこと一つ一つ確実に棄てていくように努めてきたはずなのに。三年前のきょうこの街で突然。男はレモンいろの車が通りをそれてこちらへやってくるのを眼にとめた。おれは思い出そうとしている。「咲子さんちょっと」ってあいつの友だちが呼んだのでおれは笑った。もう二十年も昔のテレビ番組。江利チエミ? いつ死んだんだっけ。レモンいろの車がガードレールに寄り添うように止った。いったいおれは何を思い出そうとしているんだろう。咲子が車を降りた。江利チエミの姑役の女優、毎週毎週「咲子さんちょっと」って呼びつづけた女優……葦原……葦原邦子。十代の女の子たちはどんな笑い方をしどんな言葉を使いどんなはにかみを見せただろう。三年まえのあの女の何がいまおれの胸を感傷で熱くするのか。そう彼女たちは確かに十年の月日を身にまとい、代りに棄てるものは棄ててきた。けれどおれにはただ三年の空白があるだけで、いまもあのときのままに感じ、物を見て聞いている。おれは棄てなかった。しかし三年まえ、おれは何を棄てなかったのか。冬ちょうど三年まえのきょう、いったい何を棄てないでいまも待ちつづけているのか。この街で突然。咲子が言った。 「横着ねえ。どうして出ないの? 十回も鳴らしてるのに」 |
『王様の結婚』佐藤正午 |
「音楽を聴いてたの」 と女は顔をあげた。ピンクに色とりどりの花模様を散らしたこたつ布団の内側へ両腕をもぐりこませて肩まで埋まると、立て膝をついた。残りの四十枚のカードが布団を辷り落ちて男の足もとで止った。 「ジョン・レノンの命日だったんですって。三年前のきょう。撃たれたんだって」 男はカードを拾い集めてテーブルの上に置き、女のとなりにおなじようにベッドを背にしてすわった。 「ねえ、トランプの独り遊びのこと何ていうか知ってる?」 「ソリテア」 男はゆっくり女の肩を抱き、女は抱かれながら男の肩によりかかった。 「英語で」 「英語だよ」 「ペイシェンスっていうのよ。ペイシェンス、訳してみて」 「忍耐」 「忍耐戯」 「友だちに習ったのか」 「晉ちゃんはなんにも教えてくれないじゃない」 と男の肩にからだをあずけたまま、片手をテーブルの上に伸ばした。揃えた指先でハートのキングを押えて、左の方へずらしながら、 「これがね、こうやって、ここまで来れば結婚が成立するの」 と言う。ハートのキングはクイーンの右隣に並べて置かれた。 「王様の結婚。そういう名の忍耐戯なのこれは」 |
『王様の結婚』佐藤正午 |
そのときまた電話が鳴り出した。女は立ち上り、煙草を持ってない方の手で耳もと髪を払ってから受話器をあてる。 「……はい。……ちょっと待って。いまさがしてくるからちょっと待って」 まるで子供をあしらうようにそう言って、鐘ヶ江に軽く顎をしゃくってみせた。 「どうする?」 「…………?」 受話器をふさいだ女の指先で煙草の灰が微かにふるえて、モス・グリーンの腰のあたりを汚した。 「女。気ちがいみたいな女。初めて聞く声みたい」 鐘ヶ江は無言でピンクの受話器を握った。手のあいた女はふたたび腰をおろし、片手でストーブの芯を調節しながら、 「電話のマナーがなってないって言ってやるといいわ。何があったか知らないけど。礼儀知らずの女くらい嫌なものはないって」 |
『王様の結婚』佐藤正午 |
駅の手荷物預かり所で半券と引換えに、男は傘を受け取った。係員はそのナイロン生地の雨傘を渡すとき、これでまちがいないかと二度念を押して訊ねた。男はあたりを気にしながら無言のまま二度じれったそうにうなずき、ひったくるように掴み取ると、ろくに確かめもせず足早に歩き去っていく。女物の傘を両手で大事そうに抱えた後姿を見送って、初老の係員は首をかしげた。 六月の空は灰いろにくすんでいる。六月の街は薄い靄のなかで蒸し暑さにじっと耐えている。日曜の午後だから、駅前の交叉点で信号待ちをしている男のそばには、地味な背広やワイシャツやネクタイ姿の通勤客は一人も見えず、たとえばリュックサックを背負った子供とその若い両親、野球のユニホームを着た小学生の団体とそれを引率する赤ら顔の中年、お揃いのジャンパースカートにハイソックスをはいてお喋りに夢中の女子中学生二人、そしてパーマをかけたばかりの髪型をした五十過ぎの太った女は、独りごとで暑いあついと呟いてはハンカチを額に押しあてている。目の前を走る自動車の群れが彼女の暑さをつのらせる。タクシーが走りバイクが走り自家用車が走りライトバンが走りトラックが走りバスが走り、それから候補者の看板を屋根に掲げた車がゆっくり走る。拡声器から名前を連呼し、窓という窓から突き出した白い手袋の掌を揺らしながら。人々は横断歩道の両側に立ちつくして、灰いろにくすんだ大気の匂いと自分の汗の匂いを嗅ぎ、拡声器を通した男の |
『青い傘』佐藤正午 |
「私はむこうへ。伊藤さんは?」 「さて、どうしよう。気ままな散歩だから」 「よろしかったらご一緒しません?」 「教会へ?」 「いいえ、途中まで。近くに美味しいコーヒーのお店があるんです」 「これから……ふたりで?」 「ええ」 「いいんですか? 遅れても」と男は思わず真剣な眼ざしで訊ね、それからあわてて笑顔をつくった。「キリストは何も言いませんか」 「いいんです、どうせ寝坊しちゃったんだから。一時間くらいなら遅れても、ベター・レイト・ザン・ネヴァ」 英語科の女教師は微笑み、先のとがったピンクいろの舌を出してみせた。男は傘のことをしばし忘れるほど戸惑っていた。女の息が漏れるような独特の発声法が、このときほど男の耳を刺激したことはなかった。この女がこんな仕草を、こんな茶目気を見せるなんて、学校ではすまし屋で、男嫌いの評判で通っているこの女が、おれをお茶に誘うなんて。 |
『青い傘』佐藤正午 |
プロローグ 1 動物公園 「寝てるのか」 と、芝生のうえに寝そべって眼をつむった男が訊ねた。その横で、両膝を抱えてすわった青年が、 「いいえ」 と答えて、相手に顔を向ける。眼を閉じた男の両手は頭のうしろで組まれていた。半袖のポロシャツからのぞく色白の二の腕のあたりを蟻が一匹這っている。注意してやろうかどうか迷っているうちに、男が言った。 「愛は入れたっけ?」 「愛?」 「ラブ・マシンて店にいたろ。ニワカせんべいみたいな顔した女が」 |
『リボルバー』佐藤正午 |
こんど会ったら殺してやると、あの夜ぼくは呟いたけれど、それは一晩かぎりの怒りが、口にさせたもので、一週間たち、二週間がすぎ、一月になれば現実味はこれっぽっちもない。ぼくはあの夜、男の拳に対して無力であったようにいまも無力であり、この先も無力だろう。ぼくは喧嘩の仕方さえ知らない。ショルダーバッグを放って立ち向うことすらできなかった。男を殺すなんて(あの夜あの一瞬そうしたいと思ったのはたしかだが)まるで夢物語だ。もういっぺん会ったってまた殴り倒されるのが落ちだ。だから、あの男を殺すという夢想と同じように、あの男を探して北へ旅立つ計画にはほとんど現実味がなかったのだ。僕は今日まで、ついさっきまでそう考えていた。考えるのをやめようとさえしていた。 しかしいまは違う。パトカーのサイレンが遠くなっていくのを聞きながら、少年は思った。いまぼくの内ポケットにある物。これは夢想ではない。ぼくはきっといままでのようにいつでも腕力のない男として生きていくのに違いないけれど、これは無力ではない。男の拳以上の力を持っている。あの夜といまは違う。いまなら、この力を借りて現実にあいつを殺すことだってできるのだ。そしてそれならば、ぼくはあいつを探して旅立つことだってできるのではないか。ぼくは十七歳の高校生だけど。他の街へ行く切符を買うことも、二千キロ離れた街へ旅することも、これがあれば可能になる。 |
『リボルバー』佐藤正午 |
こんど会ったら殺してやると、あの夜ぼくは呟いたけれど、それは一晩かぎりの怒りが、口にさせたもので、一週間たち、二週間がすぎ、一月になれば現実味はこれっぽっちもない。ぼくはあの夜、男の拳に対して無力であったようにいまも無力であり、この先も無力だろう。ぼくは喧嘩の仕方さえ知らない。ショルダーバッグを放って立ち向うことすらできなかった。男を殺すなんて(あの夜あの一瞬そうしたいと思ったのはたしかだが)まるで夢物語だ。もういっぺん会ったってまた殴り倒されるのが落ちだ。だから、あの男を殺すという夢想と同じように、あの男を探して北へ旅立つ計画にはほとんど現実味がなかったのだ。僕は今日まで、ついさっきまでそう考えていた。考えるのをやめようとさえしていた。 しかしいまは違う。パトカーのサイレンが遠くなっていくのを聞きながら、少年は思った。いまぼくの内ポケットにある物。これは夢想ではない。ぼくはきっといままでのようにいつでも腕力のない男として生きていくのに違いないけれど、これは無力ではない。男の拳以上の力を持っている。あの夜といまは違う。いまなら、この力を借りて現実にあいつを殺すことだってできるのだ。そしてそれならば、ぼくはあいつを探して旅立つことだってできるのではないか。ぼくは十七歳の高校生だけど。他の街へ行く切符を買うことも、二千キロ離れた街へ旅することも、これがあれば可能になる。 |
『リボルバー』佐藤正午 |
プロローグ 「あんたはいつも片眼を閉じてるから駄目なのよ」 と、よく叔母は言った。 「片眼を閉じてるから、世の中の半分しか見えていないんだよ」 しかしもちろん、ぼくはいつも片眼を閉じて生活しているわけではない。叔母がぼくを見るたびに腕組みをし、ためいきと一緒に口にする決まり文句は、だから軽い皮肉を含んだ比喩なのである。つまり叔母は、ぼくのこれまでの人生における失敗を、とくに女性問題に関する数々の失敗を、文芸批評家がぼくの小説を扱うとき必ず欠けている洗練されたレトリックとイマジネーションを用いて上手に批評してくれている。あるいは同情してくれている。あるいは共感してくれている。叔母はしめくくりの文句としてよくこう言った。 「あんたはまちがいなく、あたしの甥ってことだねえ」 |
『ビコーズ』佐藤正午 |
1 賭け事をする男とだけは一緒になるな。 それが母の遺言でした。遺言といっても、いまわのきわの枕元で聞かされたわけではないし、そのことばを書きつけたものがのこっているのでもありません。母は仕事から帰った夕方、服を着替えるひまもなくいきなり茶の間でたおれ、救急車で病院へ運ばれて三日後に意識の戻らないまま死んだ。七年まえのことです。わたしが二十三歳になったばかりの冬だった。脳動脈瘤破裂というのが死因だと、あとで医者にいわれました。 |
『恋を数えて』佐藤正午 |
プロローグ 子供のころから名前では苦労している。そのことで何べん父親を恨んだかわからない。ぼくの名は、 光 と書いて、ひかる、と読むのである。名付けたのが父だ。九つの年に初めて自分の名が原因で悲しい気持ちを味わい、半べそをかきながら母に文句を言ったのだが、そのとき、 「お父ちゃんに言いなさい。お父ちゃんに。あんたの名前をつけたのはお父ちゃんなんだから」 と逆に叱られて、母親に罪はないことを知ったのである。もっとも、 野呂 と書いて、のろ、と読む姓を持つ男の家に嫁いだ女を、いまはちょっぴり恨まないでもないけれど。ともかく、ぼくの名前は野呂光という。のろ、ひかる。奇妙な名前だ。奇妙な姓と名の組合せだ。ぼくはこの名前と今年で三十一年つき合うことになる。 |
『恋を数えて』佐藤正午 |
「神原の言うとおりだ」 予想外の方向から声が飛んできた。全員がそちらへ向き直る。 「自分の判断を疑うなんて、藤野涼子らしくもない」 呼び捨てで言い放ち、通路から待合室の蛍光灯の下へきびきび進み出てくる。判事担当の井上康夫だった。銀縁眼鏡の縁を光らせ、白シャツに制服の黒ズボン。ちゃんと着替えてると、健一は余計なことを考えた。 |
『ソロモンの偽証 第U部 決意』宮部みゆき |
「バラバラね。変革のとき来るって感じかな」 良いことにはかならず終わりがくるのよ、と言った。 「良いこと?」 「そうよ。だって楽しかったじゃない。いろいろあったけど、あたしたち、いいコンビだったと思わない?」 私は何も言えなかった。 「今度のことで迷惑かけちゃったし。あたしの方から言うべき台詞じゃなかったか」 「いいえ、いいコンビでした」 |
『ペテロの葬列』宮部みゆき |
「君もいろいろ気苦労が多いでしょうが」 森氏は私の目を見て言う。 「菜穂子さんの幸せを守ってあげてください。ほかのどんなことよりも、生涯の伴侶と決めた女性を幸せにすることが、男にとっては最大の務めです」 私はまた頭を下げた。「お言葉、肝に銘じておきます」 |
『ペテロの葬列』宮部みゆき |
「あなたばっかり、どうしてこんな目に遭うのかしら」 私は、その場で思いついたことを言った。 「僕は飛び抜けて幸運な人間だから、神様が、たまにはバランス調整をしないと不公平だと思うんじゃないかな」 妻は微笑した。何となく点けっぱなしにしていた深夜のテレビに映った古いB級映画のなかで、気の利いた台詞を聞いた |
『ペテロの葬列』宮部みゆき |