『桶狭間の戦い』物語
当時 今川の勢力は、三河はもちろん定置最前線は 鳴海 大高 長島にまで及んでいた。
5月1日(陽暦6月4日)に陣触れをし、長男氏真を留守居にして5月12日に義元本陣は府中(今の静岡市)を出発。領内をゆったりと進み 岡崎 池鯉鮒を経て5月18日には 沓掛(豊明)に着いた。
が、今川が沓掛に入ったことを知った18日の清洲城の軍議で 信長は、多くの重臣が「籠城」を主張したのに対し 常識を破って 義元を迎撃し野戦に持ち込むことに決めた。
信長はそれまでに考え抜いた結果 心の中では 「戦場は三河と尾張の国境で大軍が通るときは細長く伸びざるをえない『桶狭間』」 と決めていた。
信長は 死を覚悟していた。
有名な「敦盛」を舞ったのは この時である。
∬ 人間五十年下天のうちをくらぶれば
∬ 夢まぼろしの如くなり
∬ ひとたび生を享け滅せぬ者のあるべきか
翌早朝、信長はまず熱田に向けて出発した。例によって疾風の如きの出陣で、清洲城の大手門を出る信長に従ったのはたった二百余人で、多くの家来は追随できず あわてふためき追いかけたという。
戦勝の報を聞いた義元は沓掛を出発し、大高城に向かった。
ここまで籠で来た義元は、この日はじめて鎧を着て馬に乗って出かけようとしたが、沓掛城を出る時落馬し輿に乗り換えて出発した。
途中沿道の住民の戦勝祝いを受けながら進んだので意外に時間がかかった。
この中には、蜂須賀小六たちが 沿道の百姓になりすまして紛れ込み歓迎の列を作り、今川義元の進軍をわざと遅らせたとの説もある。
この日は朝から非常に暑かった。太った義元は これ以上進むのが苦しくなり途中海道からはずれ田楽狭間で休憩をとることにした。そして 当時の風習で通過地点の里人たちが おびただしい戦勝祝いを献上して来た。
義元は 祝いのご馳走が暑さで腐るのを恐れ、また戦勝で浮かれ気分であったことも手伝って、ここで部下に酒肴をとらせることにし、各隊は昼間でありながら兜を取り宴会を開いた。
鳴海周辺で小競り合いをした後、信長軍は今川軍主力との衝突を避けるため裏道をとおり、海道北側の太子ヶ根という丘陵を目指した。
途中、土地の豪族 梁田政綱の情報により、今川本陣が田楽狭間に入ったことを知る。
やがて、嵐のような天候がおさまり視界が回復したと思ったら、信長軍の目の前に今川軍がいるではないか。
突撃〜〜イ。突撃〜〜イ。
無勢の信長軍は、余計な争いはせず もっぱら義元を討ち取ることを主眼に探し回っているうち、ついに発見。
信長隊の服部小平太が 槍で義元の脇腹を刺した。が義元は佩刀松倉郷の太刀を抜き放ち その槍を切り落としその切っ先は小平太の向う脛を切り払った。
この時、同じ信長隊の毛利新助が 背後から義元に組みつき短刀で首を討ち取った。
高徳院資料館のパンフレットには
と書かれているが、私は次の3つと見る。
最期に、司馬遼太郎「街道をゆく 43…濃尾参州記」より引用。
"信長のえらさは、この若い頃の奇跡ともいうべき襲撃とその勝利を、ついに生涯みずから模倣しなかったことである"
(注) この物語は、主に小説を参考にしながら 私が勝手に作ったものであり、史実調査などしておりませんのでご了承ください。
〔参考にしたもの〕