長久手古戦場 愛知県 愛知郡 長久手(ながくて)町 一帯
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いの折、家康と秀吉諸軍が戦った跡。
4月9日の長久手での戦闘では、家康方が大勝し 秀吉方の多くの武将が戦死した。
跡には塚が築かれ、鎮魂の松が植えられ、昭和14年(1939年)国の史跡に指定された。
この小牧長久手の戦いは、後の日本の動きに大きな影響を与えた。
すなわち 秀吉政権の樹立を促がすとともに、家康の台頭を示す物でもあった。
その前に『小牧・長久手の戦』とは どんな戦いだったか 復習しておく方が面白いかも!!
@古戦場公園 の中に
A郷土資料室
B勝入塚
C庄九郎塚がある。
また300mほど西へ行ったところに
D武蔵塚
他に E首塚 F色金山
G御旗山 H桧ヶ根・堀久太郎陣地
I血の池公園 J木下勘解由塚 などの史跡がある。
また、所在地は日進市になるが、○岩崎城
も古戦場の一環と考えても良いだろう。
「長久手の合戦」の最激戦地跡“仏ヶ根”につくられたメモリアル公園。
『史跡 長久手古戦場』の大きな石碑が建てられている。
右奥に見える白い建物が郷土資料室。中には合戦の解説や、兜鎧、また
合戦とは直接関係ないが このあたりの無形民族文化財「棒の手」の様子などが展示されている。
無料のレンタサイクルもあり、自転車で史跡を巡るのもよい。(ただし、長久手町は道路があまり整備されていない)
手前は、合戦の地形(色金山、御旗山、桧ヶ根、など)を模した広場。
秀吉側の武将『池田恒興』(1536−84、信輝、勝入斎)戦死の地。
池田信輝は、もともと信長の家来(乳兄弟)であったが この時期 秀吉に味方した。美濃大垣の城主。
膠着した小牧戦線を打開するため 岡崎への中入れを秀吉に進言、自ら一番隊を率いて進攻した。良くも悪くも 長久手の戦いの立役者といえよう。
次男の輝政もこの戦いに出陣したが生き残り、のち徳川家康に仕え大名となり、明治には華族になった。
この碑と 庄九郎塚の碑は 華族池田候が建てたもの。
『池田之助』 (ゆきすけ、1564−84、庄九郎、元助、紀伊守)戦死の地。
池田恒興の長男で、岐阜城主。父にしたがって参戦したが戦死。
之助は 父・恒興の陣より南にいたが、「父は如何に」と尋ねたところ「討死」と聞いて 父の陣に引き返す所を討ち取られた。
勝入塚のわずか200m足らず南にある。
この塚の前に「武者揃い」という名の、(名前にしては可愛いデザインの)紙パックのお酒がそなえてあった。
『森 長可』(ながよし、1558−84、庄蔵、武蔵守)戦死の地。
長可は美濃金山城主で、池田恒興の娘婿。勇猛果敢な武将で「鬼武蔵」という異名を取っていた。
長久手町の「常照寺」に、三将(池田恒興、池田之助、森長可)の墓がる。
ひっそりした所にあって、随分小さな墓であった。
合戦の舞台となった長久手の村々は、野といわず山といわず戦死者の山となった。
この惨状を目のあたりにし、心を痛めた 岩作村安昌寺の雲山和尚は、村人たちとともに屍を集めて埋葬し塚を築いて供養した。
毎年、合戦の日には首塚に香華が手向けられ、村人らによって法要が営まれるが、この法要には遠く名古屋から、尾張藩士らの参詣もあった。
(長久手町教育委員会作成の現地看板より)
小牧を出発した家康は、守山あたりから東へ回り込み瀬戸を通って 色金山に達した。
この色金山の山頂は眺望が良く、ここにひとまず陣を敷き
軍議をおこなった。
左は その時 家康が腰掛けた岩で「床机石」といわれている。
右は色金山山頂からの眺望
その後、家康は『御旗山』へ本陣を進め、山頂に金扇の馬標を立てた。
やがて戦いは、クライマックスへとなる。
この周辺も今は住宅地となり、この山も道路のために かなり削り取られている。
秀吉方の『堀久太郎秀政』が陣を敷いた所。
堀秀政は、秀吉方の軍監として 兵3000を率いて参戦。
三好秀次の軍を破って追撃してきた、徳川方 榊原康政・大須賀康高の軍を迎え討ち、この桧ヶ根(ひのきがね)の戦いが局地戦で唯一の 秀吉側の勝利となった。
現在は公園として整備され、長久手町立の図書館がある。
『血の池』は、壮絶な戦いが終った後、徳川方の将兵が刀や槍を洗ったことからその呼び名がついたといわれる。
また、毎年合戦の行われた頃になると、池の水が血の色に赤く染まって漂ったとも言い伝えられている。
今は、埋め立てられて公園になっている。
また、名松「鎧掛けの松」が有名であるが、どれか見つけられなかった。
(池と同様、今は無いのだろうか??)
木下勘解由左衛門利定の戦死地
秀吉方の総大将・三好秀次の軍が白山林で、徳川軍先遣隊の追撃を受けて潰走した。
秀次は馬も無くし徒歩で逃げるうちに、木下勘解由に会った。勘解由は秀次に馬を与え、自分は防戦に回り奮戦したが、ついに力尽きて討死した。
長久手古戦場公園から、南南西へ約3Km、日進市岩崎にある。(といっても今の岩崎城は数年前に再建された鉄筋コンクリート造りであるが)。
岡崎への中入れを狙った池田恒興・森長可隊は、途中 徳川方の岩崎城を無視して通り過ぎようとしたが、城代の丹羽氏重(城主・丹羽氏次の弟、氏次は小牧に出陣中)は、たとえ少勢であっても 黙って見過ごしては「恥」と思い、死を決して戦った。
もちろん多勢に無勢 岩崎城は落城したが、秀吉方にとっては ここで手間取ったことが、大きく影響した。