同時多発テロ・幻のアメリカ旅行

あの2001年9月11日、私は アメリカに向かって機中にいました。
偶然とは言え、貴重な そして二度としたくない経験をしましたので、書きとめておきます。

1.概要

女房との二年ぶりの海外旅行でアメリカ西海岸に行こうと、9月11日 成田16:45発 全日空008便 サンフランシスコ行きに乗っていた。
太平洋もほぼ横断し終わり サンフランシスコ到着一時間半ほど前、突然機長から機内放送があり事件を知った。合衆国内の空港に国外の航空機は着陸できなくなったので、カナダのバンクーバー空港に向かうとのことであった。

バンクーバー空港着陸までは順調であったが、それから三日半、バンクーバーを飛び立つまで、ほぼ缶詰状態でひたすら帰国便を待つことになった。

振り返ってみれば、自宅出発から帰着までの五日間は何だったんだろう。結局、太平洋を往復しただけで、何もしていないではないか。
人生の中の五日間を損したような気もするし、とっても貴重な体験をしたような気もする。。。

2.出発まで

今回のような体験は 本当に偶然の重なりといえる。
結果的に あの日あの時間帯に、太平洋上を飛んでいたが、振り返ってみると三つの分かれ道があった。

まず一つは、9月に予定していた仕事が、キャンセルになったこと。
女房に前々から「今年もどこか行きたいね」と言われており、この時なら年休がとれるチャンスと、行くことに決めた。
この仕事がキャンセルになっていなかったら、旅行には行っていなかった。

二つ目は、行き先・出発日の決定。
もともと「ヨセミテ」「グランドキャニオン」の入った今回のコース(団体ツアー)が第一候補であったが、希望する9月初旬の出発日は 人数が集まらず催行されない可能性が高かったので、第二候補であった同じ出発日の「イタリア旅行」を予約していた。
ところが、その後旅行社の新聞広告を見ていたら、9月11日のアメリカコースが、催行確定となった。
当初予定日でイタリアにするか、出発日を変更してアメリカにするか迷ったが、やはり一番行きたかった本命にしようということで、11日発のアメリカ行きに変更した。
イタリアにしていれば、もちろんこの便には乗っていなかった訳である。
(ただ、当初希望していた9月初旬のアメリカ行が催行されていれば、日程の最終日あたりで引っ掛り帰国が数日遅れたかもしれないが、「ヨセミテ」「グランドキャニオン」には行けていた)

三つ目は出発当日の天候。
前日から台風15号が近づいており、出発が危ぶまれた。
予定では、朝 名古屋空港から成田空港に飛び、成田で半日待ったあと夕刻サンフランシスコ行きに乗るということであった。
11日朝起きたら、どうやら台風は静岡付近に居るらしい。が、名古屋→成田便は欠航と言う情報はなかったので、名古屋空港に向かった。成田便は予定通り出発。通常なら太平洋岸を飛ぶのであるが、この日は台風を避けて 新潟上空経由で成田に向かい無事到着。第一の関門は通過。

台風の中 出発待ちの成田空港

しかし、台風は伊豆半島から房総半島方面に向かっているらしい。サンフランシスコ便は飛ぶのだろうかという懸念はまだ残っている。

幸いなことに成田で待っている間に台風は通り過ぎた。 第二の関門も通過。ラッキーと思いながら機上の人となった。

名古屋→成田、成田→サンフランシスコ どちらか一つが欠航になっていれば出発は1日遅れ=事件で中止になっていたはず。


3.バンクーバーへ

太平洋もほぼ横断し終わり、あと一時間半ほどでサンフランシスコ到着という時(西部時刻11日AM9:00頃)、突然機長から機内放送があり事件を知った。「ハイジャックされた飛行機がニューヨークの国際貿易センタービルに衝突した。この事件の影響により合衆国内の空港に国外の航空機は着陸できなくなったので、カナダのバンクーバー空港に向かう」とのことであった。想像を絶するニュースにただ驚くばかり。その後どうなるかまでは頭が回らないし、情報もそれ以上何も無い。
(この時点では テロによるものだとは知らなかった)

バンクーバー空港には問題なく着陸(西部時刻10:30頃)。滑走路から誘導路に向かったが、そこで停止。着陸したものの駐機スポットは既に満杯。しばらくは、誘導路でこのまま待つとのこと。
その間にも、次々と着陸する飛行機があり、空港は大混雑。3時間ほど待ってようやく駐機場へ動いたが、ボーディングブリッジが来ない。更に2時間ほど待ってようやく機から降りることができた。どうやら、入国検査に時間がかかっているため、前がつかえて降りることができなかったようだ。
機内持ち込み手荷物の検査も非常に厳しい。通路に警官らしき係員がずらりと並び、持っていた手荷物一つ一つをすべて開け、中をチェック。包装紙に包まれていたものは包装紙まで剥がされた。

大混雑のバンクーバー空港入国審査
着陸後5時間ほど経っている。

空港は混乱し、預けた荷物は今日は出ないとのこと。
ようやく到着ロビーへ(西部時刻16:00になっていた)。添乗員が、次の手配をしている間にテレビニュースを見た。信じられない映像が次々と飛び込んでくる。
3年前に貿易センタービルの屋上まで出たことがあるが、あのビルに旅客機が突っ込み、ビルが崩壊するとは。。。
戦争になるという噂も出ているようだ。あらためて事態の重大さを認識。
自宅には大学生の息子が一人留守番をしているので早速電話をしたが、やはり随分心配したそうだ。会社からも安否の問い合わせの電話が入っていたとのこと。

旅行社が機転を利かせ?先に現地エージェントを通してバンクーバーのホテルを手配してくれていたので、取りあえず荷物無しでホテルに向かう。(実はこの機転が、後程 裏目にもなるわけだが)

HolidayInn Express

ホテルは、Holiday Innとの事。よく取れたなと思っていたら、空港から1時間弱、バンクーバー郊外(ノースバンクーバー)のモーテルであった。緊急事態だからしかたがない。
ホテルに着いても何もすることがない。外へ勝手に出かけることもできないし。
取りあえず風呂に入ったが着替えも無い。テレビニュースを見ながら時間を過ごす。ニュースも英語なので(^_^;)半分しか意味が分からない。親戚に電話をして日本の状況を聞いたが、日本にいる人の方がはるかに豊富で正確な情報を持っている。
日本からインターネットの情報をFAXで送ってもらって見ている人もいた。

やがて添乗員から、夕食に行くと連絡があった。考えてみたら機内で7:00頃朝食を摂ったきり何も食べていなかったが、緊張していたせいか それまで空腹感は まったく感じなかった。
郊外だし、足も無い。近くにあったデニーズに歩いて行くことになった。
カナダはお酒の販売の規制が厳しい国で、酒屋は限られたところにしかないし、レストランも許可を受けていないと出せないらしい。デニーズには置いてなかった。私は、成田の免税店でウィスキーを1本仕入れていたので良かったが(^_^;)、不満をぶつけていた人もいた。
この頃から、参加者の言動が少しずつ とげとげしくなってきた。

夕食後添乗員から、「今回のツアーは中止とし、一刻も早く日本に帰る方向で動きたい」と説明があり、この非常事態下やむを得ずということで全員了承。明日は取りあえず朝から空港に行って待機することになった。

4.再びバンクーバー空港へ

翌日(現地時刻12日)朝、早く目が覚めてしまったので、ホテルの周囲を40分ほど女房と散歩。ほんの少しだけカナダの雰囲気を味わった。
午前9時、ホテルを出発。取りあえず バンクーバー空港へ向かうが、この先どうなるのか一切わからない。添乗員にも何も情報が入っていないようだ

YAOHANのセンターコートで昼食
その後また 空港まで荷物を引き取りに戻る。

空港へ着いてしばらく待っていると、ようやく添乗員と全日空係員とのコンタクトが取れたようだ。
そこでわかったのは、「今日は飛行機は飛ばない」ということと、「午後になると荷物が引き取れる」ということだけ。
既に12:00近くになっていたので、一旦街の方へ行って昼食を摂り(空港は閉鎖されておりレストランもやっていないようだった)、また空港に戻って荷物を引き取り、昨日と同じモーテルに戻ることになった。

先ほど「この機転が、後程裏目にもなるわけだが」と書いたが、その意味は。。。
同じ飛行機に乗っていた他の乗客は、全日空が手配したホテルに入り(手配が遅れて、ずいぶん遠いところだったらしいが)、シアトルから駆けつけた全日空の係員も同行し、逐次情報も入っていた。
従って翌日は飛ばないことがわかっており、荷物も全日空がホテルまで届けてくれ、その日はホテルでゆっくりしたそうだ。

我々のツアーは別行動したことにより、情報が入らなくなってしまい翌日も朝から空港に詰め掛けることになってしまった。
全日空側からみると、我々は一時行方不明になっていたらしい。どうも、この旅行社の取ったアクションが全日空には、『勝手な行動』と捉えられ、滞在中の費用負担でも、もめているような気配だ。同じことが、成田到着後にも起こる。

再び空港からホテルに戻る途中、酒屋に寄ってくれたが、ビールを何本も仕入れていた人がいる。長期戦覚悟か?
その日も、テレビニュースを見るだけ。やっと着替えができたことと、パジャマが手に入ったことだけが救い。

5.こころ落ち着かせて

翌日(13日)朝、添乗員から「今日は午後から閉鎖が解除される予定だが、飛べるかどうかは分からない。取りあえず空港に行って待機することにする。ホテル出発は10時」との連絡があった。
まだ時間は十分ある。少し気持ちに余裕ができてきたのか諦めなのか、自分でも良くわからないが、兎に角イライラしても、ジタバタしても仕方が無い。せっかくジョギングシューズを持ってきたので、ジョギングに出かける。
昨日とは反対の方向に走り始めた。森が多い中、落ち着いた感じの住宅が散在する。この辺りはバンクーバーの中〜高級住宅街だそうだ。
Tシャツ・短パンではやや寒いが走り出せば何とも無い。結構走っている人がおり、見知らぬ人でも すれ違えば「good morninng」と声を掛ける。これは、日本でも外国でも同じだ。出勤を兼ねてか、ヘルメットをかぶりスポーツタイプの自転車で車道を疾走する人も何人か見掛けた。
アップダウンのある道を30分ほど走ったら、どうやら隣町に出たようだ。午前7時頃なのに、床屋が、もう営業している。
などなどキョロキョロしながら1時間ほど走ってホテルに戻り、シャワーを浴びて朝食。
唯一外国へ来た気分を味わった時間帯だ。

6.再再度バンクーバー空港へ

10時にバスでホテルを出発。
昨日のバスの運転手さんは、日系移民一世の方で、30数年前にカナダに移住して来たそうだ。空港への往復の道だけだったが、親切にガイドをしてくれた。
今日の運転手さんは、サミーデービスjr.そっくり(一緒に写真を撮りたいくらいのそっくりさん)。フランス語訛りのある英語だったが、やはり所々で解説をしてくれた。みな親切だ。

11時前に空港へ到着。ターミナルビルの一番端が、我々の待機場所として指定された。
取りあえず12時までは何の動きも無いので、自由行動となった。一応土産物でも見ようかとターミナル中央の方に向かったが、すごい人人人。満足に歩けない。それでも人波をかいくぐって見物。
12時に待機場所に戻っても、何も新たな情報はない。そのまましばらく待たされる。どうも全日空とうまくコンタクトが取れていないようだ。

ボランティアによる差し入れのテーブル

しばらく待っても何も動きが無いので、女房がそっと抜け出して、昼食を調達に走る。周りを見ると昼食を摂っている人は少なく、皆イライラしながら待っている。
待機場所の近くに大きなテーブルがあり、そこにはミネラルウォーターのペットボトルがどんと置いてあり、時々補充に来る。ボランティアのようだ。このミネラルウォーターは助かった。待機中に2本ほど頂き、更に一本もらって帰った (この1本があったので帰りの飛行機の中でも助かった)。
しばらくして、そこに食べ物が持ち込まれたが、あっという間に無くなった。

14時頃になって 全日空の係員が来て説明があった。「空港閉鎖は15時に解除されるが、我々の便は現在空港当局と折衝中で、何時に出発できるかわからない、今日出発できるかどうかもまだわからないが、もう少し待ってくれ」とのこと。
その後もしばらく解散、集合を繰り返したが、18時頃にやっと決まった。22時出発とのこと。これで皆一安心。
チェックインに時間がかかるので、まず空港に待機している皆さん方は、19時からチェックインを開始したい。18時50分に時間厳守で集合して欲しいとのこと(他の乗客は、空港の入場制限に引っ掛って空港外のバスで待機しているらしい。それも大変だ)

急いで夕食を済ませ集合するが、また何の音沙汰も無くしばらく待たされる。
全日空はバンクーバーに乗り入れていないので、チェックインカウンターが無い。そこで同じスターアライアンスグループのエア・カナダに依頼をしたが、その準備が遅れていたようだ。

7.バンクーバー出発

20時頃になってようやく、待機場所からチェックインカウンターに移動。そこでまた長蛇の列。
先に手続きしていた外人さんが、チェックインカウンターの前で、預け入れ荷物を開いて一所懸命何かを探している。荷物の中に電気製品、電子製品など爆発物の部品と見られるものが入っていては いけないということで、あわてて取り出しているようだ。
一人一人自分の順番が回ってきてからやっているので、ますます時間がかかる。「そんなこと 並んでいる間に前もってアナウンスしておけば良いのに」と思ったが、そこがカナダ人の悠長なところだそうだ。
それを聞いた日本人グループはあちこちで荷物を広げ取り出し始めた(私もだが)。大勢が同時に荷物を広げ探し物をしているのは滑稽な光景であった。
発券も手作業で、一人5分くらいかかっている。

周りの人と雑談をしながら待っていて、ふと気がついたら5〜6人いたカウンターの係員が一人もいなくなっている??。チェックイン途中らしき荷物もカウンターの前に置きっぱなしになっている???。しばらくしたらまた係員が戻ってきて作業を再開した。どうやら休憩時間だったようである。再開したら今度はカウンターの前に荷物を置きっぱなしにしていた乗客がいないので、係員が探しに行く。
カナダの人は、待つことは平気、その代わり人を待たせることも平気と聞いていたが。。。

ようやく搭乗手続きが終り、今度は機内持ち込み手荷物の検査。
ここでも予想はしていたが、すべて中を開け、一つ一つチェック。女房が化粧品を入れるポーチの中に、先が丸くなった とても凶器にはなり得ない小さなハサミを入れていたが、没収された(別途預かりではなく没収)。 後で聞いたらマッチ針を没収された人もいた。

搭乗待合室に入る。空港到着後12時間経過
全日空機が待機しているのを見て、ようやく『帰ることができる』実感がわいた
深夜で他の便の乗客は一人もいない。

ようやく搭乗待合室に入ったのが22時過ぎ。まだチェックインを終っていない人はいっぱいいるはず。まだまだ時間がかかりそうだ。
幸いにして免税店が一店だけ開いていたので、自分達の欲しいものと、子供への土産だけ買った。本来の目的地に一ヵ所も行っていないのに他人へのお土産を買う気持ちはさらさら無かった。

搭乗待合室で待つことさらに3時間。翌14日午前1時ようやく出発。このまま成田へ飛んでも着くのは、深夜のはず。成田空港は夜間やってないのではないか。一時関空へ行くのではないかとの噂もあった。(我々にはその方が都合がいいのであるが)


8.帰国

全日空はバンクーバーに拠点が無いし、日本から飛んできた機材がそのまま引き返すわけだから、機内の毛布も往きに使ったまま。食事も一応出たが、紙袋に入った「硬いパン」と「水」と「クッキーにジャムを押し込んだような甘いお菓子」それに「皮付きのりんご」。ま、事情を考えればやむをえないか。あるだけでもマシ。と思ったが、ほとんど食べなかった。

日本時刻15日午前3時、成田空港到着。これからどうするのだろう、名古屋便は夜の7時まで無いし。
と思っていたら、降りる時全日空から「ホテルを手配してあり、まずはそこで休んで、翌日は新幹線で帰ってください。新幹線代も出します」という文書が配られた。

そのつもりでいたら、またそこで旅行社が機転?を利かせた。
「名古屋までバスをチャーターしました。全日空さん手配の通りホテルに泊まって、新幹線で帰っていただいても良いし、バスをご利用いただいても結構です。お好きな方をお選びください。どちらにしても新幹線代は出ます」とのこと。
全日空が手配してくれたホテルも成田でなく幕張まで行かなければならないし、明日の朝、重い荷物を引っ張って新幹線に乗るのも面倒だ、このままバスで名古屋まで行った方が良いと思って、バスにした。大部分の人がバスを選択した。この処置にはきっと皆も満足したに違いない。

ところが、バスに乗っても新幹線代の払い戻しが無い。誰かが尋ねたら、全日空と旅行社の解釈の行き違いがあったようで、全日空は、「手配したホテルに泊まらない人は成田空港で解散したものと見做し、新幹線代は出さない」とのこと。
ここでも旅行社の勝手な判断(もちろんお客様にはその方が良いと考えてアクションを取ったことはわかるが)が、露呈してしまった。
実質、新幹線代はかかっていないから、金銭的には問題ないものの、その訂正説明が無かったことに腹を立てた事が発端になり、「全日空は成田に着いた時にキチット手配をして対応を文書で出しているのに、旅行社は何もしていない。今回の旅行代金はどうなるんだ、皆気にしているのに何の説明も無い。誠意が全く感じられない。名古屋に着くまでに考えか方を整理し、納得できる説明をしろ」と添乗員に食って掛かる人があり、バスの中は非常に気まずい雰囲気になってしまった。

添乗員が、名古屋の旅行社に連絡をし、名古屋についた段階で、しかるべき立場の人が何らかの説明をすることで、一旦おさまったが、当然そんなにすぐに結論が出ている訳はない。
10時過ぎに名古屋駅帰着。旅行社のお客様相談室の役職者が出迎えに来ており、もう一度同じやり取りがあり、結局「できるだけ誠意を持って対応するので、しばらく時間を欲しい」というお詫びで、なんとも後味の悪い解散となった。

ちなみに、約款上は返金しなくても良いことになっている。今後の旅行社の対応が、固定客を増やすか、お客様を無くすかの、分かれ目になるだろう。
私も仕事上、このようなお客様からの苦情への対応を教えているので、今回の旅行社の対応、全日空の対応には大変興味がある。『禍を転じて福と為す』事ができるか?
帰着して5日経つが、未だ回答はない。

とめどもなく長々と書きましたが、駄文に最後までお付合い いただきありがとうございました

幸いにして、私は事件のごく端の端の方でウロチョロしていただけでしたが、 もっと大変な体験をされた方も多くいらっしゃることと思います。
中には身内・知り合いで犠牲になられた方もいらっしゃるかもしれません。「お気持ちを察します」とも軽々しくは言えないような あまりにも酷い出来事でした。

こういったテロ行為は断じて許すことはできませんが、武力による報復によって更に関係の無い一般市民がこれ以上犠牲になるのもやり切れません。外交努力などでなんとか解決できないものでしょうか。いたずらに世論に流されるのではなく。
ここが真の平和を願う日本の役割、国際社会での信頼度向上につながる力の見せ所のような気もするのですが。。。

こう書いているうちに、自衛隊派遣の方向で事態は動いている。本当にいいのだろうか。。。。

不幸にして、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしますとともに、 まだ行方不明になっておられる多くの方々の中から、一人でも多く救出されることを お祈りします。

2001年9月20日