『桶狭間の戦い』物語

(1)今川義元 京を目指す

駿府に本拠を置く今川義元は、甲斐の武田 小田原の北條と攻守同盟 姻戚関係を結び 戦国の世にしては 安定した状態が続いていた。
が、永録3年(1560年)、なにを思ったか 突然大軍を率いて京に上ることにした。
後顧の憂いなく、行く手は脆弱な尾張兵を従え 実力も良くわからない新興の織田信長がいる。
義元としては、一気に踏み潰して行くつもりであっただろう。
義元42才の厄年だった。

当時 今川の勢力は、三河はもちろん定置最前線は 鳴海 大高 長島にまで及んでいた。
5月1日(陽暦6月4日)に陣触れをし、長男氏真を留守居にして5月12日に義元本陣は府中(今の静岡市)を出発。領内をゆったりと進み 岡崎 池鯉鮒を経て5月18日には 沓掛(豊明)に着いた。

(2)信長出陣

一方信長は当時清洲城にいた。 信長は細作を放って 今川義元の行動を着実に把握していた。
当然今川出陣は知っていたが、今川方3万の軍に対して こちらはせいぜい集めても5千。数の上では圧倒的に不利なことがわかっており、どう戦いを進めるかに頭を悩ませていた。

が、今川が沓掛に入ったことを知った18日の清洲城の軍議で 信長は、多くの重臣が「籠城」を主張したのに対し 常識を破って 義元を迎撃し野戦に持ち込むことに決めた。
信長はそれまでに考え抜いた結果 心の中では 「戦場は三河と尾張の国境で大軍が通るときは細長く伸びざるをえない『桶狭間』」 と決めていた。

信長は 死を覚悟していた。
有名な「敦盛」を舞ったのは この時である。

∬ 人間五十年下天のうちをくらぶれば
∬ 夢まぼろしの如くなり
∬ ひとたび生を享け滅せぬ者のあるべきか

翌早朝、信長はまず熱田に向けて出発した。例によって疾風の如きの出陣で、清洲城の大手門を出る信長に従ったのはたった二百余人で、多くの家来は追随できず あわてふためき追いかけたという。

(3)今川義元 桶狭間に進出<

19日払暁、今川軍の前線部隊は大高城(今川方)に対峙して作られた 織田側の「鷲津」「丸根」砦を攻め落とした。
(この丸根砦攻めに向かったのが松平元康(後の徳川家康)であったが、守将の佐久間盛重の奮闘に随分てこずった。)

戦勝の報を聞いた義元は沓掛を出発し、大高城に向かった。
ここまで籠で来た義元は、この日はじめて鎧を着て馬に乗って出かけようとしたが、沓掛城を出る時落馬し輿に乗り換えて出発した。
途中沿道の住民の戦勝祝いを受けながら進んだので意外に時間がかかった。
この中には、蜂須賀小六たちが 沿道の百姓になりすまして紛れ込み歓迎の列を作り、今川義元の進軍をわざと遅らせたとの説もある。

この日は朝から非常に暑かった。太った義元は これ以上進むのが苦しくなり途中海道からはずれ田楽狭間で休憩をとることにした。そして 当時の風習で通過地点の里人たちが おびただしい戦勝祝いを献上して来た。
義元は 祝いのご馳走が暑さで腐るのを恐れ、また戦勝で浮かれ気分であったことも手伝って、ここで部下に酒肴をとらせることにし、各隊は昼間でありながら兜を取り宴会を開いた。

(4)信長 桶狭間へ向かう

熱田で後続を待って隊形を整えた信長は、熱田神宮で 必勝祈願をし南東に向かう。
この熱田神宮で小休止した時、雨が降りそうな気配に気がつき、熱田浜の塩焚き人足の棟梁を呼びつけ意見を聞き、天気が崩れることを確信した。

鳴海周辺で小競り合いをした後、信長軍は今川軍主力との衝突を避けるため裏道をとおり、海道北側の太子ヶ根という丘陵を目指した。
途中、土地の豪族 梁田政綱の情報により、今川本陣が田楽狭間に入ったことを知る。

(5)信長 meets 義元

丁度そのころ天気が急変し、激しい雨 風が吹き、雷鳴が天地に轟くような天候になった。
この悪天候の中、信長軍は田楽狭間を目指して進んだ。
今川軍は 気が緩んでいたうえに この悪天候で、信長軍が近づいていることに全く気がつかない。

やがて、嵐のような天候がおさまり視界が回復したと思ったら、信長軍の目の前に今川軍がいるではないか。

突撃〜〜イ。突撃〜〜イ。

(6)義元の最期

今川軍は、兜もつけていないところを襲われて大慌てのうえ、まさか信長軍がここまで来ているとは想像だにしなかったので 内部の反乱という噂も立ち 誰が敵か味方も分らず同士討ちをするなど大混乱。

無勢の信長軍は、余計な争いはせず もっぱら義元を討ち取ることを主眼に探し回っているうち、ついに発見。
信長隊の服部小平太が 槍で義元の脇腹を刺した。が義元は佩刀松倉郷の太刀を抜き放ち その槍を切り落としその切っ先は小平太の向う脛を切り払った。
この時、同じ信長隊の毛利新助が 背後から義元に組みつき短刀で首を討ち取った。

(7)信長軍は、何故勝てた…

3万の今川軍に 3千の信長軍が勝った、その勝因は。

高徳院資料館のパンフレットには

  1. 天の時(集中豪雨)
  2. 地の利(丘陵相迫る山峡)
  3. 人の和(信長勢の団結)

と書かれているが、私は次の3つと見る。

  1. 徹底的に情報を集めて準備をしたこと…年初から今川方が出陣準備をしていたことや、出陣後の動きなど、すべて知っていた。
  2. 常識を破った戦法を用いたこと…多勢にたいして無勢で対抗する場合は「籠城」が常識戦法であった。今川方もまさか信長本軍がここまで出て来るとは想像すらしていなかった。
  3. 目的を明確にしたこと…無勢で まともに戦ったら勝ち目は無いため、奇襲戦法をとり しかも余計な戦いをしないで、義元の首をとることに目的を集中させた。
    (そのために、丸根・鷲津の砦を見殺しにしたという冷酷さもあるが)

最期に、司馬遼太郎「街道をゆく 43…濃尾参州記」より引用。

"信長のえらさは、この若い頃の奇跡ともいうべき襲撃とその勝利を、ついに生涯みずから模倣しなかったことである"

(注) この物語は、主に小説を参考にしながら 私が勝手に作ったものであり、史実調査などしておりませんのでご了承ください。

〔参考にしたもの〕

  1. 津本陽 「下天は夢か」
  2. 司馬遼太郎 「新史 太閤記」
  3. 司馬遼太郎 「街道をゆく 43…濃尾参州記」
  4. 桶狭間高徳院 古戦場資料館パンフレット

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bekkan
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