小牧・長久手の戦い

長久手古戦場を訪ねるにあたって「小牧長久手の戦い」とはどんな戦いだったか振り返ってみよう。

(1)戦い前夜

天下をほぼ手中におさめかかっていた織田信長は、天正10年6月2日未明 本能寺の変で突如最期を遂げた。

織田家略図 その後 素早く光秀を討った豊臣秀吉は、後継争いに一歩先んじたがそれはあくまでも平取締役が、専務になったような物である。
で、後継の社長を誰にしようか取締役会を開いた(天正10年6月下旬;清洲会議)。
もともと専務格であった柴田勝家は、いくら信長の嫡孫でも三法師は主君として仰ぐには若すぎるとして信雄よりできのいい信孝を推した。

秀吉は 初め信雄を推すつもりであったが、信孝と比べると人物的に勝つ自信が無かったので、急遽 勝家に対抗するため(信雄、信孝の期待に反して)、 三法師を後継者とすることが理の当然であると 正当論を主張し譲らなかった。

勝家は一旦は同意したが 心穏やかならず、翌天正11年信孝と謀って 秀吉を討とうとしたが、賎ヶ岳の戦いで破れ 越前北の庄の城で 妻 お市の方と共に焼死した。
また、信孝も 兄信雄の勧告により自害した。

終ってみて、信雄は秀吉の力が日増しに強くなっていくことに不満でたまらない。
“親父の草履とりをしていたヤツではないか”と思ってみても 到底自分の力で倒すことは出来ない。 そこで、徳川家康に応援を頼んだ。

いつかは 秀吉と雌雄を決しなければならないと考えていた家康は、好機と考えただろう、信雄の要請を快諾し、力を得た信雄は秀吉に宣戦布告した。

こうして小牧・長久手の戦いの幕が切って落とされた。

(2)小牧布陣、戦線膠着

家康は、天正12年3月7日 兵を率いて浜松出発。13日信雄の清洲城へ入った。

信雄の所領である北勢方面も視野に入れつつ 両者作戦を練っているうちに、秀吉側についた 美濃大垣城主・池田勝入斎恒興が犬山城を攻め取った(3月13日)ことを知り、急遽小牧山の故塁を修築し(22日完成)、家康自身も26日に小牧に移り本陣を構えた。
信雄も29日小牧へ移った。

この間、17日には 秀吉側の森長可が仕掛けた「羽黒の戦闘」があったが、家康軍の勝利に終っている。

一方、大阪城築城など多忙を極めていた秀吉は ようやく21日大阪を出発、近江より美濃に進み 岐阜 鵜沼を経由して27日に犬山に入城した。

が、家康はすでに準備万端。秀吉は攻め懸けることができず、大掛かりな野戦陣地を築いた。

いくつかの挑発的行動はあったものの、お互いに先に出撃した方が負けることを知っており、動かず戦線は膠着した。

(3)池田勝入の献策

戦線が膠着していた4月4日、池田勝入斎恒興が秀吉に岡崎侵攻作戦を献策してきた。

その内容は
「小牧山を攻めても容易には落ちない。かといって長く対陣していても、このような大軍では兵糧の維持が難しくなる。小牧山の方も日毎に人数が増えてきており、きっと岡崎は手薄になっているに違いない。この際密かに岡崎を攻めれば、家康は狼狽して岡崎へ帰るであろう。自分を将とする別働隊を組織し、是非やらせてくれ。」と。

信長が得意としていた、いわゆる「中入れ」の作戦である。しかし他の将が真似をして成功した例は少ないといわれている。先の賎ヶ岳の戦いでも柴田勝家軍がこれをやって結局敗北を喫した。

秀吉はその申し入れを 一旦 やんわりと断ったが、羽黒の闘いの汚名(森長可の敗戦とそれを救援できなかった勝入斎の負い目)挽回のため、功をあせる池田勝入斎は翌日再度強硬に申し入れ、秀吉もシブシブうなづいた。

信長なら、一喝しておしまいだっただろうが、今の秀吉の立場ではそうもできなかった。
秀吉の場合は、諸将はこの間までの同僚であり、誰も秀吉の家来であるとは思っておらず、単なる諸将同盟の盟主にしかすぎない。
ましてや池田勝入斎は、かっての織田家の先輩であるし、信長の傅人子であり、その機嫌を損ねたくないという配慮が大きく働いた。強硬に反対すると信雄の方へ寝返ってしまう恐れもあった。

(4)岡崎に向けて出発

軍団は次のように編成された。

第一隊 : 池田勝入父子 ‥‥‥ 6000
第二隊 : 森 長可 ‥‥‥‥‥‥ 3000
第三隊 : 堀 秀政 ‥‥‥‥‥‥ 3000
第四隊(本隊) : 三好 秀次 ‥‥ 8000

池田勝入にしてみれば、羽黒の闘いの汚名挽回もあり 池田勝入父子と一族の森長可の軍で編成するつもりだったが、心配した秀吉は 堀 秀政を軍監につけ、さらに甥の三好秀次の部隊をつけ 秀次を総大将とした。
奇襲部隊としては、規模が大きすぎる員数である。

先鋒の 池田勝入の軍は6日夜半に行動を開始したが、途中後続の部隊を待ちながらゆっくり進軍し、最終的に全部隊が揃い宿営地を出発したのは、8日の夜(午後10時)であった。
信じられないことだが、勝入はこれだけの大部隊が移動しても、家康に気づかれるという心配は まったくしていなかったようだ。
村瀬作右ヱ門・森川権右ヱ門らと近道を相談し、「長久手を経て、祐福寺、明知街道」をとることにし、道案内は両名がつとめた。

(5)家康動く

家康は、すでに7日の夕刻の時点でこの動きをつかんでいた。

〔長久手町教育委員会発行の資料、司馬遼太郎の小説「新史太閤記」によると〕最初は、近郷の百姓が注進してきたが家康は、「まさか秀吉がこの状況下で危険な中入れをするはずが無い。擬兵を出して砦外に誘きだそうという謀略だ。」と考えて容易には信じなかった。
その一時間ほど後、森長可の陣に放っておいた伊賀の忍 服部平六も同様のことを告げてきた。家康は密かに出陣の準備を命じた。。。とある。

〔武功夜話によると〕池田勝入から道案内を命ぜられた、村瀬作右ヱ門から!!!、「池田勝入、森長可の部隊が矢田川を渡り、猪子石、岩作、岩崎をへて岡崎に攻め入るべく、準備をしている」という連絡があった。
(村瀬作右ヱ門・森川権右ヱ門は、少し前から加勢するごとく見せかけ池田の陣所に出入りし兵糧の運搬を手伝ったりしながら動向を探っていたのだ。)

徳川の先遣隊は、8日夜(午後7時頃)に小牧を出発した。

配置は、
道案内 : 丹羽勘助氏次(岩崎城主) ‥‥‥300
左 翼 : 榊原康政 等 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥1550
右 翼 : 大須賀康高 等 ‥‥‥‥‥‥‥‥1850
予備隊 : 水野忠重 等‥‥‥‥‥‥‥‥‥800
と、豊臣隊に比べれば はるかに小人数であった。

午後11時頃、一旦小幡城に入り、軍議を開いた上で、翌9日午前2時頃には、豊臣軍の後尾を密かに進撃しはじめた。

この時点で、徳川方は豊臣方の動きをすべて掴んでいたのに対し、豊臣方は家康の行動を何一つ知らず、岡崎を目指して行軍していた。
奇襲する方とされる方の立場はまったく逆であった。

(6)岩崎城の戦闘

その頃、第一隊の池田勝入父子、第二隊の森長可は長久手の東南、現在の日進市 岩崎城付近を進軍していた。

岩崎城は、徳川方の城で 城主 丹羽勘助氏次は小牧に出陣しており(前にも書いたとおり先遣隊の道案内役としてこちらに向かっている)、弟の氏重と 姉婿の加藤忠景が留守を守っていた。

9日未明、池田の大軍が悠々と通過していくのを見た 氏重・忠景は『たとえ少勢であっても、ここで見過ごしたら末代までの恥』『敵が三河へ侵攻するのを、小牧の本陣は知らないであろう。我々がここで時間を稼ぐうちに誰かが注進してくれるだろう』と考えて、たった二百数十人で戦いを挑んだ。

池田勝入は 無視して通り過ぎるつもりであったが、若い長男 紀伊守之助や、森長可が聞き入れず、攻め懸けた。

城側が必死になって戦っているうちに、一弾が池田勝入の乗馬に命中。馬は棹立ちになり、勝入は落馬し しばらく立ち上がれなかった。
これを見た城兵は「勝入討死」と思い 鬨の声を挙げ さらに鉄砲を撃ちかけてきた。

元来短気な勝入はついにキレて、「この小城一挙に攻め落とせ」と命じ、4000人で一挙にもみつぶした。
岩崎城の戦闘は午前4時頃より始まり午前6時頃落城し、丹羽氏重、加藤忠景も討ち取られた。時に丹羽氏重は18才であった。

勝入父子・長可は二百数十人の首をならべ機嫌良く朝食をとって祝宴を張っていた。
そこに突然、三好秀次の敗戦の知らせがきた。

(以下 工事中 しばらくお待ちください。)


bekkan
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